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「百済王伝説の里」宮崎県美郷町を訪ねて

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Academic year: 2022

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「百済王伝説の里」宮崎県美郷町を訪ねて

野田 政伸

百済王伝説と言うものを初めて聞いた。今は何でもインターネットで調べることができるので、すぐに検索し てみた。なんでも、宮崎県北部の村に千数百年前、朝鮮半島から日本に亡命して来た百済の王族が、この地に移 り住んだと言うのである。

十数年前、奈良東大寺の正倉院と同じ様な建築物を建設したと言うニュースを聞いた事があったが、それが この地であり、また百済王伝説と関係があったと言う事も知らなかった。

さっそく家族で、宮崎県美郷町を訪れてみた。

「道の駅 とうごう」前の道路標識

将軍標のお出迎え

しばらく走ると突然、将軍標のお出迎え。

いよいよ百済王伝説の里か。わくわくしてきた。

もうしばらく走ると右手に韓国風の建物が見え てきた。屋根の反りが特徴的な朝鮮様式?の建物。

山里の風景には少し不似合に感じた。

その建物の横に鳥居があった。

神門神社。百済王の遺品と書いてある。この神社に 百済王の遺品があるのか。それともこの朝鮮様式の 建物の中にあるのか。

九州自動車道から大分自動車道、東九州自動車道を乗 り継いで日向市まで約 3 時間。国道 10 号線から県道 327 号線へと右折して約 30 分。道路標識に初めてハングル 表示が。

福岡からひたすら走って来たので「道の駅とうごう」

で一服することに。案内図によるとここから「百済の里」

までは約 40 分。そそくさと百済の里を目指して出発。

朝鮮様式の建物

(2)

鳥居をくぐって石段を上がって行くと、その朝鮮様式の建物には「百済の館」の看板がある。

さらに石段を上がって行くと樹齢数百年は経っていそうな大きな杉の木が目に入った。そして、杉木立の奥に ひっそりとたたずむ本殿があった。手前が拝殿、奥が正殿。賽銭箱に 50 円玉を投げ入れ、まずは参拝。

説明書によると、神門神社は養老 2 年(718 年)の創建で、主祭神に大山祀命(おおやまずみのみこと)と百 済国禎嘉王を奉る、とある。

「百済王伝説」によると、百済国が滅亡した後、亡命して来た禎嘉王はこの地にたどり着き、豪族益見太郎ら 七人衆に助けられこの地に定住した。子の福智王は、今の児湯郡木城町に定住した。福智王は現在比木神社の祭 神の一人として奉られている。

禎嘉王が祭神として奉られている神門神社には、33 面の同鏡が百済王族の遺品として伝えられている。その中 には東大寺大仏台座下より出土し、正倉院に収められている「唐花六花鏡」と同じ物も含まれているそうだ。そ の他、高句麗や新羅時代の物として韓国で多く出土されている馬具、百済様式の甕(かめ)等もある。

神門神社の鳥居と朝鮮様式の建物 神門神社の本殿

百済王の遺品の中に、正倉院御物と同じ同鏡があ った事から、それらを収蔵展示する為に平成 8 年に 建てられた「西の正倉院」。建設にあたっては、門外 不出とされていた正倉院図を元に、柱、梁、瓦や釘、

金具に至るまで寸分たがわず再現されたそうだ。

東大寺正倉院は内部非公開となっているが、ここ は入る事ができる。500 円の入場料を払って中に入っ て見ると、檜のいい香りがした。

内部には、「百済王伝説」を裏付ける古文書や、百 済王遺品の同鏡の内 24 面が収蔵展示されている。

東大寺正倉院と寸分たがわず再現された「西の正倉院」

百済王伝説を裏付ける古文書 展示してある銅鏡

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展示品の中でひときわ目を引くのが天井近くまで積み上 げられた 1003 本の鉾。神門神社の天井裏から発見されたも ので、その一つ一つには長禄 3 年 12 月 19 日や天文 9 年 12 月 12 日、慶長 9 年 12 月吉日、等の日付が書かれている。

この地では、比木神社に奉られている福智王が、神門神社 に奉られている父禎嘉王に会いに行く伝説を再現した「師走 まつり」が毎年旧暦 12 月に行われている。この祭りでは、

比木神社からご神体と鉾を担いで神門神社まで詣で、鉾は神 門神社に奉納されたと言う。

その鉾が 1003 本発見されたと言う事は、師走祭りが少な くとも 1003 年に渡り執り行われたと言う事だ。まさに百済 王伝説を裏付ける証拠である。

天井近くまで展示してある 1003 本の鉾

西の正倉院を出て「百済の館」に向かった。

最初違和感を覚えた百済様式の建物も、その屋根は周囲の山並みに調和して見える。

この建物は、韓国から招いた職人により、百済王朝最後の都扶餘の王宮跡にある「客舎」をモデルに、

日韓友好のシンボルとして建てられたもので、百済王朝の歴史や文化、民族衣装等が展示してある。

軒裏の鮮やかな塗装は「丹青(タンチョン)」と呼ばれ、その施行には国家資格が必要とされるので、

これも扶餘から丹青師を招いて描かれたそうだ。

内部の天井や梁にも鮮やかな丹青が施されている。

韓国の民族衣装、韓服を着てみた。 気分はもう韓国旅行!!

鮮やかに施された軒裏の丹青

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車を 10 分ほど走らせて、神門神社を見下ろす丘 の上へ行ってみた。

ここにも扶餘の「百花亭」をモデルに再現された 東屋がある。ここにも鮮やかな丹青が施され、中に は日韓友好の証として送られた一対の鐘が付けら れている。この鐘は「絆の鐘」と呼ばれ、恋人、親 子、兄弟姉妹で鐘を鳴らすと一層絆が強くなると言 われているそうだ。

扶餘の「百花亭」をモデルに建てられた東屋

神門神社に収められていた品々、毎年執り行われる師走祭り、この地区に残る「児洗い」や「あぶら田」

等の地名。これら数々の証拠に裏付けされる「百済王伝説」。もはやこれは伝説ではあるまい。

韓国の歴史には禎嘉王の名も、福智王の名も出てこないと言われるが、「朝鮮海峡は川だった」と言わ れる時代、朝鮮半島と日本の間を多くの人が行き来をして又、百済王族がこの地に逃れてきた事は間違い ない。

しかし何故、この地へ逃れて来たのだろうか。あの山の向こうは平家落人の里、椎葉村。この山々には 逃れ人を引き寄せる何かがあったに違いない。

それにしても、今度は百済の古都、扶餘に行きたくなってきた。

九州山地の山々

참조

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