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朝鮮陶工の足跡を辿る旅 ~有田焼のルーツを求めて~
藤野 和成
秋を一気に通り越して、急激に冷え込み、冬の寒さが訪れたこの日、私は佐賀県有田町を訪ねた。
佐賀県有田町は九州、いや日本を代表する陶磁器の町である。私の頭の中でも、ゴールデンウイークに開 催される「有田陶器市」のイメージが鮮烈であり、毎年有田焼を買い求める大勢の観光客で賑わう光景が、
真っ先に思い浮かぶ。それほどまでに身近な存在である有田焼であるが、これまでそのルーツについて、詳 細は知らないままに過ごしてきた。今回の旅は、私にとってそのルーツ探しの旅であった。
バスが有田町に入ると、窯元の看板や煉瓦造りの煙突、有田焼を展示販売する商店などが次々と目に入っ て来た。バスの車窓から、商店のガラス戸越しにちらちらと見える有田焼の展示品に気を引かれながら、有 田が陶磁器の町であることを改めて実感する。この日の有田の町並みは静けさをたたえ、稲の刈り取りが終 わった田んぼ、たわわに実った柿の木、そして色とりどりに紅葉した木々が、晩秋の旅情をかきたててくれ る。狭い通りを挟んで軒を連ねる暖かみのある木造の建物、白壁や石塀が続く町並みに、どことなく懐かし い郷愁を感じるのは、50歳を過ぎた年齢のせいだろうか。私の心は水を打ったように落ち着き、旅人の自分 と有田の町とが自然に溶け合っていくのを感じた。
ほどなく、バスは有田焼の陶祖初代李参平を祀る陶山神社に到着した。李参平は豊臣秀吉の文禄・慶長の 役の時に、朝鮮から鍋島藩に連れて来られた陶工である。文禄・慶長の役の折、無名の陶工達も含め、多く の陶工達が朝鮮から九州に連れて来られ、彼らが九州の陶磁器文化の礎を築いたという。陶山神社の鳥居が 見える。そこが神社への入り口、と思ったとき、目の前に線路が現れ驚いた。踏切や遮断機もなく、線路が そのまま敷かれ、特急列車も普通に走っている。少しヒヤリとしたが、ちょっとした珍風景が興趣をそそり、
印象深い。鳥居をくぐり石段を上りつめると、今度は磁器でできた鳥居が出迎えてくれた。日本でも三つし か存在しないという非常に珍しい磁器製の鳥居は、とても見応えがある。神社には磁器製の狛犬や欄干、太 鼓なども見られ、陶磁器の町ならでの情趣を感じ取ることができ、旅情は更に高まっていく。また、李参平 が今なお有田焼の祖として信仰を集め、町内外から多くの人たちが神社を訪れていることを聞き、朝鮮陶工 の心が脈々と現在に受け継がれていることを実感した。
陶山神社を参拝した後、神社裏にある細い山道を登って行く。途中から道は舗装されていた。息が少し弾 み、額にも汗をにじませながら、さらに登る。だんだん焼き物の町並みが小さくなっていく。陶山神社から 登ること約10分。視界が開け、視線の先に現れたのは大きな石碑だった。まだ何という文字が刻まれている のか、はっきりと読めない。石碑に近づくにつれ、刻まれた文字が明らかになった。約6mの高さの石碑に は「陶祖李参平碑」と刻まれている。
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ここで、李参平窯14代の金ヶ江三兵衛氏からこの碑についての説明を聞いた。「李参平が有田焼の原料と なる磁石鉱を発見した1616年から300年後の1916年、李参平の碑を建立することを決めました。しかし、
日本は1910年に日韓併合を行ったばかりで、そのような時代に朝鮮人の碑を建立することはいかがなものか、
という反対意見も強かったのです。それでも有田の人々には、今の有田の繁栄があるのは有田焼の礎を築い た李参平がいたからこそだ、その李参平に対する感謝の意を表すことこそが我々の意志だ、という思いが強 かったのです。そして、碑は窯元が並ぶ有田の町を一望に見渡すことができるこの場所に建立されました。
今でもここから、初代李参平が有田焼の行く末を見守ってくれているのです。」この説明には、非常に深い 感銘を受けた。私は14代金ヶ江三兵衛氏の言葉を、何回も何回も頭の中で反芻した。日韓両国の関係が複雑 な時代環境の中にあっても、有田焼の陶祖李参平に対する感謝の気持ちを忘れず、その気持ちを貫いた有田 の先人たちの思いに胸が熱くなった。当時、石碑建立のための巨大な石を、この高地まで人力で運ぶには大 変な苦労があったことも聞いた。だからなおさらのこと、この石碑には陶祖李参平に対する多くの人たちの 感謝の気持ちがこもっているのだ。石碑に手を触れると、先人達の感謝の気持ちが伝わってくるようで、無 機質な石の表面がとても温かく感じられた。そして、ふと空を見上げると、頬をかすめる初冬を思わせる冷 たい風が、とても清々しく感じられた。心に残る、素敵な話を伺った。
昼食後、李参平ゆかりの窯で、日本で最も初期の磁器窯の一つであるといわれる天狗谷窯跡を訪れた。説 明板には「21室の焼成室と距離70m、高低差21mの規模を有し、当時としては最大規模の登り窯だった」と 書かれている。登り窯では下段から一段ずつ上段に熱が伝わっていくように、この窯から有田では本格的な 磁器生産が広がっていったのだろう。登り窯跡を一歩、一歩、上りながら、往事の磁器生産の過程に思いを 馳せることができた。
天狗谷窯跡から歩いてすぐの場所に、初代李参平が眠る墓があった。墓碑には月窓浄心居士という戒名が 刻まれている。「この戒名には、初代李参平が窓から見える月を見ては故郷を懐かしんでいた思いが込めら れています。墓も朝鮮半島の方を向いて立っています。墓碑が建てられ、戒名も付けられていることから見 て、当時彼がいかに厚遇されていたかがわかります。」と、14代の金ヶ江三兵衛氏が説明してくれた。家族 から引き離され、異郷の地にて暮らす運命となった李参平の思いは、いかばかりであったろうか。そんな悲 しい境遇の中で、陶工として仕事に打ち込み、有田焼の陶祖となった彼のことを思うと、胸に熱くこみ上げ るものを感じた。墓石の前で手を合わせながら、心の中で「本当にありがとうございます。どうぞ安らかに お眠り下さい。」と伝え、墓を後にした。
有田町で最後に訪れたのは、17世紀初め、初代李参平が発見したといわれる泉山磁石場である。泉山磁石 場の前に立ったとき、そのスケールの大きな景観に圧倒され、思わず声を発した。「すごい!」、その後に 言葉が続かない。自分の住む九州に、このような歴史の遺産が存在することを初めて知り、驚きを禁じ得な かった。そして、ここで磁石鉱が発見され、採掘が始まり、日本の磁器の歴史、有田焼の歴史が始まったこ とを思うと、「遂に有田焼の原点を訪ねたんだ!」という感激は、いつしか深い感慨に変わった。
今回、佐賀県有田町を旅することにより、日本を代表する焼き物である有田焼のルーツをた辿ることがで きた。李参平をはじめとする朝鮮陶工たちは、豊臣秀吉による理不尽な朝鮮出兵により、意に反して日本に 連れて来られ、他郷暮らしという辛い運命を背負うこととなったことは辛すぎる負の歴史だ。しかし、李参
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平によって始まった有田焼の伝統は、今なお14代に受け継がれ、その命脈は連綿と続いている。そして、先 人達も含めて有田の人々が、朝鮮陶工に対する感謝の心、敬う心に溢れていることを目の当たりにし、深い 感銘を受けた。その感謝の心が、今後も後世までずっと受け継がれ、また地域を越えてより多くの人々に広 がっていけば、良好な日韓友好関係の発展に、きっと繋がっていくのではないだろうか。そのような意味で も、是非より多くの人たちに、有田町で朝鮮陶工の足跡を辿る旅をして欲しいと願ってやまない。
器、皿、湯飲み、花瓶などの焼き物は、私たちの日常生活には欠かすことのできない、とても身近な存在 となっている。空気のように、あまりにも何気なく接しているだけに、その歴史や背景について考えること は殆どなかった。これからは、食事で焼き物の器を手に取るとき、居間に飾られた一輪挿しを眺めるとき、
朝鮮から連れて来られた陶工たちのことに思いを馳せてみよう。そして心の中で彼らに感謝の言葉を語ろう。
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