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朝日文左衛門の娘こんと朝鮮通信使

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Academic year: 2022

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韓日歴史・文化フォーラムでは過去にも朝鮮通信使に関する講演が行われたが、最近で は 2014 年5月に千田龍彦氏が取り上げている。千田氏はその後、講演をベースに簡略化し て釜山文化財団発行の季刊誌「朝鮮通信使ジャーナル」2015 年夏季号に寄稿した。この論 文は寄稿文に一部加筆されたものである。

朝日文左衛門の娘こんと朝鮮通信使

東海地方朝鮮通信使研究会/読売新聞記者

千田 龍彦

朝日家の通信使見物

1711 年 10 月5日早朝、大垣を出発した第8回朝鮮通信使の行列は、美濃路を 名古屋へと向かった。400 人近い通信使一行に対馬藩主、藩士らも加わり、荷駄 人足を含めて総勢は 2000 人以上である。途中から雨が降り始めた。

橋がなく、ふだんは渡し船で渡る揖斐、長良、木曽の三つの大河には、通信 使のため特別に船橋が架けられていた。上・下流から多数の船を集めて横に並 べ、その上に板を張った臨時橋だが、流れに抗する様々な手立てが加えられて おり、安心して渡ることができた。

先発隊は昼すぎには名古屋に到着しているが、正使、副使らのいる本隊は木 曽川を渡った起宿で昼食をとり、途中でも休憩を取るなどして、夕方から午後 9時ごろにかけて、順次、宿舎となる名古屋城下の寺院に到着した。行列の先 頭から末尾まではかなりの距離があったようだ。

沿道には見物人の人垣ができていた。副使の任守幹の紀行録「東槎日記」に も「人出の多さは大坂を凌駕した」とある。名古屋城の西方、幅下の美濃路沿 いの商店は、店先を見物用の桟敷に変えていた。そのうちの1軒で、尾張藩の 御畳奉行・朝日文左衛門の家族や親戚たちが、華やかな衣装をまとい、楽器を 打ち鳴らしながら進む行列を、身を乗り出すようにして見守っていた。

江戸時代の 1607 年から 1811 年まで、計 12 回を数える朝鮮通信使の来日は、

平均 20 年弱に1回の計算になる。この時も前回から 29 年ぶり。たまたま次回 は8年後となるが、そんなことは予想できない。当時の人にとって、その行列 と巡りあうのは一生に1度か2度であり、幸運に加えて、参勤交代の大名行列 のような堅苦しさもなく、庶民の興奮は自然と盛り上がった。

事情は武家でも変わらない。文左衛門の長女で、水野家に嫁いでいたこんは、

通信使見物のために、2日前に約 20 キロ離れた山里にある屋敷から城下の主税 筋にある朝日家に里帰りしていた。水野家は御林奉行を世襲する名家である。

通信使が到着する当日も、午前8時ごろには、祖母や朝日家の親戚に、非番だ ったこんの夫の久次郎、舅の勘太夫が合流して出発し、幅下の商店に来ていた。

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通信使の本隊が店の前を通るまでには半日近くある。それまでは桟敷で食事 やおしゃべりをしながらすごすことが楽しかった。通信使の宿泊先の警固に駆 り出されていた父の文左衛門と、高齢で足の不自由な祖父の定右衛門、出産を 間近に控えていた文左衛門の後妻、すめの3人は不在だったが、会話は途切れ ることがなかった。

楽器の調べが響いてきた時、最初に歓声を上げたのは、大人の中に1人だけ 交っていた幼い嘉吉だった。「これこれ、お行儀よくしなさい」とたしなめるこ んの顔には、幸せな時間を満喫する母親の表情が浮かんでいた。

しかし、嘉吉はこんの実子ではない。2年前、数え 15 歳で水野家に嫁いだ時、

14 歳年上の久次郎にはすでに嫡男の嘉吉がいた。先妻の子で、こんには継子と なる。どう対処したらいいのか、最初は戸惑いもあった。しかし、こん自身、

父母の離婚、継母の登場、同居を体験しながらも、祖母や継母から十分な愛情 を受けてきた記憶がある。嘉吉との間に、

実の子と変わらない親子関係を築くこ とが、水野家の繁栄と自身の幸福につな がるのだと、小さな胸に覚悟を決めた。

こんの注ぐ愛情に嘉吉も応えるよう になった。問題は朝日家の人々だ。文左 衛門たちは、嘉吉を甲斐甲斐しく世話す るこんが哀れで、早く自分の子を抱かせ てやりたかった。こんは朝日家の人々に 自分の覚悟を示し、嫡男である嘉吉を認 めさせる機会をうかがっていた。

それが、朝鮮通信使の来日で実現した。

結婚後、何度も里帰りしていたが、嘉吉 を朝日家に連れて来たのは今回が初め てだった。「次の機会があるとは限りま

せん。ぜひ嘉吉に通信使の行列を見せてやりたい」とこんが言うと、朝日家の 誰も反対はできなかった。こうして嘉吉の朝日家デビューが実現した。

父の文左衛門だけは依然としてよそよそしく、当日の朝も「わしは仕事だか ら」と出かけていったが、一緒に見物に出かけた祖母や朝日家の親戚たちはも ちろん、留守番の祖父や継母も、里帰りしてからの2日間、嘉吉に優しい笑顔 を見せてくれていた。

文左衛門の記録

朝鮮通信使の行列を日本人がどのように受容したかは、通信使側の記録はも

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ちろん、日本側にも多くの書物や絵画に残されていて、毎回、大きな関心を寄 せていたことがわかる。プロ野球の優勝パレード見物で、都心に何重もの人垣 ができるのとよく似た状況だったことだろう。しかも、江戸までの往復路から 遠く離れた、例えば三重県津市や鈴鹿市の祭りにも、通信使を模したとされる

「唐人踊り」が伝わっている。日本国内への影響が広く、深かった証拠だ。

こんの父、朝日文左衛門も 27 年にわたる膨大な日記「鸚鵡籠中記」に第8回 朝鮮通信使に関わる記録を残している。文左衛門の役職は尾張藩の御畳奉行。

藩主が寺院や地方の役所などを訪問する前に、そこの畳を更新するという、平 和な時代を象徴するようなポストだ。後世の私たちの幸運は、彼の日記が身辺 や自身の役職の枠にとどまらず、あらゆるジャンルを対象としたことだ。

この時も、通信使を迎えるために、尾張藩がどのような準備をしたのか、そ の全般に触れている。日本人は食さない獣肉を通信使一行に提供するために、

名古屋郊外の山で大規模な鹿狩りが実施され、生け捕りにされた様子も記して いる。ここで活躍したのが、こんが嫁いだ御林奉行の水野家だった。

10 月5日の欄には、通信使一行の宿泊先となった寺院では、来訪した日本人 の求めに応じ、書画を徹夜でしたためる通信使の姿に感心したことや、風習の 違いか、下僕たちの不作法に憤慨したことも書き留めている。禁止されていた が、自身も警固の合間に書画をねだり、何枚かの作品を手にしている。そんな 役得まで日記に正直に記しているのも文左衛門らしい。

同藩では通信使の接待役のトップは藩の重臣で、藩主が通信使の送迎に顔を 出すことはなかった。しかし、文左衛門は翌6日、第4代藩主の徳川吉通が夜 明け前に城を出て、本町通沿いの商家に上がりこみ、通信使の出発を待ち受け たことを紹介している。簾がかけられ、外から中をうかがうことはできないが、

中からは通りが一望にできた。吉通の側室たちも近隣の商家を見学場所とした。

その前を通信使一行は、楽器を奏でながら次の宿泊地・岡崎へと進んでいった。

こんと嘉吉

もちろん、こんたちの通信使見物も文左衛門の日記には登場する。しかし、

記述は短く、ごく簡単だ。

3日 こん、韓人見物のため来る。嘉吉同道。

5日 母・こん・文四郎夫婦や勘太夫・久次郎ら午前8時ごろ、幅下へ見物 に行く。帰宅は真夜中。

これだけである。そこには、通信使見物を「嘉吉の朝日家デビュー」にしよ うとしたこんの思惑も、嘉吉のはしゃぐ姿も、こんの結婚に対する文左衛門の 心情も書かれてはいない。

私が描写したのは、資料でたどることのできる歴史的事実を超えた小説的事

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実だ。しかし、武家の嫁でさえ、通信使見物のために「里帰り」するほどだっ たことは確かで、文左衛門の日記の1行に、当時の人々の心情を見た気がした。

しかも、継子の嘉吉を連れて、である。なぜだろうか、と疑問が湧き、こんの 結婚や、嫁ぎ先の水野家のことを調べてみようと思ったのは、この1行がきっ かけだった。

そのような視点で、この後の日記をたどると、こんが文左衛門に対し「嘉吉 を孫のように扱ってほしい」と何度も働きかけていたことがわかった。文左衛 門も娘の気持ちを理解したのだろう。1716 年には「嘉吉は孫だ」と宣言する儀 式めいた食事会を開いている。

その翌年の6月 11 日、こんに待望の男子が誕生し、文左衛門の幼名と同じ、

亀之助と名付けられた。朝日家の喜びようがわかる。ドラマなら、家督争い、

お家騒動が始まりかねないところだ。しかし、文左衛門の日記には、私を驚嘆 させたある心配りが記されていた。

同年 12 月2日、文左衛門は水野家を訪問した。久しぶりに孫の亀之助の顔を 見に来たのだ。嘉吉にとっては、周囲の愛情を弟に一人占めされてしまったよ うで辛い日々だったことだろう。こんに対しても、結局は継母なのだと思い詰 めていたかもしれない。

この時、文左衛門は嘉吉に意外な提案をする。「いっしょにハイキングに出か けよう」。日記では行先は奇岩・巨岩の多い名勝地としているが、地名は出てこ ない。夕方には帰宅した。2人でどんな話をしたかも日記には書かれていない。

ただ、夕食でおいしい酒を飲み、そのまま水野家に泊まったとあるだけだ。

嘉吉に見せた文左衛門の配慮の背後には、嘉吉に対するこんの揺るぎない愛 情があったに違いない。そして、この時のハイキングの記憶は嘉吉の脳裏に深 く刻まれることになる。3週間後、文左衛門が酒毒による病に倒れ、筆も持て なくなり、回復することもなく翌年9月に死去してしまったからだ。

日記からうかがい知ることのできる、こん、嘉吉、文左衛門の関係が、冒頭 に描写した朝日家の通信使見物の様子を想像する根拠となったことを、理解し ていただけただろうか。

おわりに

20 年後のこんと嘉吉には、文左衛門の死をきっかけとする朝日家の没落・断 絶によってもたらされるもう一つのドラマが待っている。その時、御林奉行と なっていた嘉吉が下した「決断」の背景には、初めて朝日家を訪れ、朝鮮通信 使を見物した幼い日と、文左衛門と2人だけで出かけたハイキングの記憶があ ったに違いないと思うのだが、その話は別の機会に譲りたい。

(せんだ・たつひこ)

참조

관련 문서

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