名古屋と通信使
犬山城白帝文庫研究員 筧 真理子
はじめに
朝鮮通信使と名古屋の関わりでは、東照宮の祭礼、蓬左文庫の朝鮮本、松平 君山らと使節の詩文贈答などがよく知られています。しかし、尾張徳川家には 名古屋城下における通信使饗応をまとめた記録がほとんど残されておらず、こ れまで名古屋における応接体制については点描的にしるされるのみでした。
宿所などの配置
名古屋城下町は、三の丸の南に規則的な区割り、いわゆる碁盤割の町人地を 広く設け、その東と南を中心に武家地、その外側に寺院が配置されていました。
ここに通信使を迎えたのは寛永元年度から明和度までの9回で、第7回の天和 度以降は通信使一行の宿所などの全容がわかっています。
三使を含む次官以上の宿所は性高院です。中官以下の宿所には極楽寺、阿弥 陀寺、大光院、善篤寺、誓願寺などが当てられ、宗氏宿所は総見寺、随行の以 酊庵輪番僧両名は光明寺、養林寺でした。
これらの寺院は南寺町と呼ばれる地区に集中しています。同町は名古屋と熱 田宿を結ぶルート上に当たり、名古屋城下の縦筋のメーンストーリートである 本町通続きの南端部に位置していました。総勢 1300 人余の宗氏家臣は南寺町周 辺の寺院と南北の通りに沿って並ぶ町屋に宿所を取ったようです。
在方からの荷駄馬や人足は、使節到着の前日から、城下南に接する3ヵ村に 宿を取ることを命じられ、馬は真福寺(大須観音)、清寿院、七ツ寺、願証寺(西 本願寺掛所)の四ヵ寺周辺に設けられた仮厩に入りました。人足の溜まり場は 願証寺境内などでした。また、町村から提供された夜着などは大久保見町の伝 光院に集められました。鞍置馬・鞍皆具を提供した諸大名の家臣の宿所はほと んどが伝馬町筋以南、南寺町以北で、本町通を中心とする区域内にありました。
以上のように、通信使のための宿所と人馬の溜まり場などは名古屋城下町の 南端付近に集中し、鞍置馬など提供の諸大名の宿所を含めると、名古屋城下町 の南半分を、本町通を軸としてフル活用したといえるでしょう。
尾張藩の応接体制
接待の総責任者は尾張藩付家老をはじめとする年寄クラスですが、実質的に は国用人(城代の用務を行う)、用人(礼式、音信、贈答などを管轄)らをトッ
プとしたチームが組まれて御用係となったと思われます。
使節の名古屋滞在当日の藩士の応接体制は、正徳度以降についてはかなり詳 しく知ることができ、三ヶ村代官(美濃国恵那郡の三ヵ村を所管)、山方奉行(荒 蕪地を管轄)などまでが名古屋での接待に動員されています。
尾張藩は名古屋だけではなく起宿と鳴海宿の接待も担当し、両宿についても それぞれ藩士が役割を受け持ちました。1藩で3ヵ所での接待は他に例があり ません。町並、宿泊所などの整備や人馬、食材などの事前準備、船橋や茶屋、
道中での応接などを含めて考えると、尾張藩士をねこそぎ動員した接待体制が 組まれていたといえるでしょう。
使節の通行
往路、起宿で昼休みをとった使節は美濃路を経由して西北方向から名古屋城 下に入り、堀川沿いを下って五条橋を渡り、町人地区へ足を踏み入れます。五 条橋から京町筋を東へ向かい、本町通との交差点で南へ向きを変え、高札場の あった札の辻を通って、宿所となる性高院のある南寺町へと至ったと考えられ ます。翌朝になりますが、南寺町からさらに南へ行けば、城下町南の大木戸を 経て熱田宿に着きます。この道を通信使は奏楽しながら通行しました。
おわりに
名古屋城下における通信使の宿泊場所、藩をあげた応接体制、通行ルートな ど、尾張藩の通信使饗応の具体的な様子の一部を明らかにできたと思います。
しかし、町方を含む当日の体制は未解明のことが多く、今後も地道に史料の探 索を積み重ねていく必要があります。
(かけい・まりこ)
名古屋市中区・崇覚寺に残る「朝鮮通信使行 列図屏風」。韓国から見学に訪れる人も多い