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羊の群

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Academic year: 2022

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羊の群

なすべき礼拝

ローマ12章1-2節

牧師 四竃 揚

§1,神の憐れみ

まず「神の憐れみによって」という言葉 に注目したいと思います。それは最も根本 的な構造、物の考え方を極めてはっきりさ せる言葉だからです。

たとえて言えば数学には数式などが色々 計算されてもその両外側に絶対値の符号が 付いているとその中の数式の計算がプラス かマイナスかとは関係なく、数値だけを表 して絶対値の値を示すことになります。「神 の憐れみによって」という言葉はちょっと それと似ていると言えます。私達の人生に はいろいろな局面があります。喜びの絶頂 のような事もあれば絶望の淵に落ち込んで しまう様なときもあるでしょう。人生のプ ラス、マイナスの面と言っても良いでしょ う。しかしその私たちのすべてを神の愛が

包んでいるのです。神の憐れみを祈ること は旧約以来の伝統です。キリスト教の歴史 でも「主よ憐れみ給え」(キリエ・エレイソ ン)は深い美しい祈りの言葉です。ボンヘ ッファーは「悲しみ過ぎることは不信仰で ある」と言っています。「もちろんクリスチ ャンであっても悲しい経験はする。悲しみ にあって悲しむのは極めて自然なことだ」

と述べた後、しかし悲しみすぎることは不 信仰なことだ、と言うのです。それは「こ れまで神があなたに対してどんなに恵み深 くいらっしゃったか、ということを忘れて しまうほど悲しみに陥ることは不信仰だ」

「又現在神があなたをどんなに愛しておら れるかということを忘れてしまうほど悲し みにのめり込むこと」更に「今後神があな たに対して用意しておられる恵みの道を信 じないほどに、悲しみに浸りきること」は 罪だと述べるのです。そうです。私達のす べてを過去も現在も未来も神の憐れみが覆 っているのです。そのことをわきまえてい るのが信仰者の姿なのです。

§2,自分を献げる

「自分の体を神に献げなさい」とありま す。「何だキリスト教は人身御供のように自 分をささげなさい。と言うのか、そんなこ 日本基督教団 千代田教会 名誉牧師 松野俊一 牧師 四竃 揚

〒160-0002 東京都新宿区坂町 10 Tel & Fax 03-3351-4489 No.8 2004 年 8 月 29 日

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とは厭なこった」と私達は反発します。し かしキリスト者の生き方の基礎は「自分自 身を神に献げる」ということなのです。勿 論これはみんなが神学校に入って牧師にな るとか、すべてのものが修道院に入って修 道僧や修道女になるということではありま せん。たとい神学校や修道院に入らなくて もみんなが自分自身を神さまのものだと思 って生きると言うことなのです。私はこの ことがキリスト教の倫理の一番特徴的なこ とだと日頃考えています。それは「コペル ニクス的転換」です。今日では小学生でも 太陽の周りを地球が回っていると言ういわ ゆる地動説は知っています。しかし大人の 人であっても精神的天動説の人は大勢いま す。自分中心の人生、自分中心の世界から 抜けきれない、天動説をひっくり返すこと が出来ないのです。この精神的に自分中心 の「天動説」だったのが、神が中心である ことを受け入れる精神的「地動説」に転換 するのがキリスト教の信仰だと言えます。

これまでは自分の財産、会社、自分の地位、

家族が絶対的であり、学歴や家柄、子ども や家系というものにしがみつき、すべてが 自分中心に回っていた世界です。しかし神 が中心だということを受け入れて精神的な 地動説に立つと、自分の健康だって自分の

生命だって神さまが私に与え、委ねてくだ さっているのだ、ということをおなかのそ こから承認し、認識することが出来るので す。(コリントⅠ、4章7節)「一体あなた の持っているもので、頂かなかったものが あるでしょうか。もし頂いたのなら、なぜ 頂かなかったような顔をして高ぶるのです か」神さまに頂かなかった物があるでしょ うか、と問われるとき、私達はほんとうに ああ、そうだったのだと愕然とします。自 分の持ち物も財産も時間もすべて神のもの だ、と気が付く時に「自分の体を神に喜ば れる聖なる生けるいけにえとして献げなさ い」という言葉が生きてくるのです。大正 から昭和にかけて活躍してキリスト者詩人 の八木重吉は

自分がこの着物さえも脱いで、

乞食のようになって

神の道に従わなくてもよいのか 考えの末は必ずここに来る

と歌いましたが、この純粋な詩人の精神は すべてのクリスチャンにとって大きな問い かけです。一度きりの自分の人生を「神に 喜ばれる人生として歩んでみよう」という 決意をする時、この御言葉はほんとうに判 ったと言えましょう。

§3,なすべき礼拝

パウロはこれこそ「あなたがたのなすべ き礼拝です」と言います。

「なすべき礼拝」という言葉はギリシャ語 で「ロギケー、ラトレイア」と言う言葉で す。「ロギケー」は英語のロジカルの元の言 葉です。「ラトレイア」は礼拝と言う意味、

リタージーの元の言葉です。「なすべき礼 拝」とは霊的な礼拝とも訳せますし、論理

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的な礼拝、合理的な礼拝、とも訳すことの できる言葉なのです。自分の人生、自分の 体を神さまのものだとして献げることが最 も霊的な礼拝であると共に最も論理的な、

理(ことわり)に適った礼拝なのだ、と聖 書は言っています。従ってここから「礼拝」

と言うことも新しい意味を持ちます。礼拝 とは神を拝むことですが、それは日曜日の 特別な時だけではありません。神を神とす る、従って自分に与えられているものはす べて神さまから与えられたものなのだ、と 言うことを身をもって表すことが礼拝なの です。

§4,判別

最後に「あなた方はこの世に倣うな」と 言う言葉に注目しましょう。「この世に倣う な」とはこの世のやり方、この世のパター ンに合わせるな、と言うことです。世の中 の人が強調しているからとか、夢中になっ ているから、ということではなくて、一体 神の御心はどこにあるのか、ということを いつも根本において考えることが大切なこ となのです。それには自分自身の考えとい うよりも心を新にして自分を変えて頂いて 判別するということが大切です。パウロは フィリピの手紙では「知る力と見抜く力と を身につけて、あなたがたの愛が益々豊か になり、ほんとうに重要なことを見分けら れるように」と祈っています。(フィリピ 1:9,10)

マルチンルーサー、キング牧師は、私達 は初代のキリスト者達の福音への情熱をと り戻す必要があると語りました。そして「初 代のキリスト教徒たちはほんとうの意味で の非妥協主義者であり、この世の世俗的な

形に従って彼らの証し を言い表すことを拒否 した。かれらは正しいと 知っていた大義のため に喜んで名声や財産や 生命そのものを犠牲に したのである。彼らは量的には小さかった が、質的には巨人であった。彼らの力強い 福音は幼児殺しや血なまぐさい闘技のよう な野蛮な悪に終止符を打った。最後にはイ エス・キリストのためにローマ帝国をも捕 らえてしまったのである。」と語っています。

「心を新にして自分を変えて頂き」とパウ ロは語りました。心とは人間が人格的に責 任をもって行動する理性、行動する能力で す。これが新にされることによって生活も 新しくなります。この世のやり方に倣うの ではなく、造りかえられるのです。それは 聖霊の働きによって自分を変えて頂く以外 にありません。究極的には神と人に対する 愛が増し加わることによって、何が良いこ とであり、神に喜ばれる、完全なことかを 弁えなければなりません。それはわたした ちが自らを神に明け渡して心を新にするこ となしには不可能な道なのであります。

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礼拝前の讃美歌練習

讃美歌21 が生 まれ、礼拝で 使用されるよ うになりまし た。私たちも 自信をもって 大きな声で歌えるようになるため、礼拝前 に飯島恵子さんの指導で練習することにな りました。飯島さんよろしく!

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懐かしい方々からのお便り

思い出いろいろ

廣瀬 千春

吉田満穂牧師の父上、重孝様の新築のお宅 は、大連市郊外旅順に近い黒石礁海岸にあ りました。電車の終点から海へ向う道には、

外国人、日本人の高級住宅が並んで、各国 の国旗がはためいていたり、各自の庭でテ ニスを楽しむ姿も見られました。

吉田様のお宅は一番海に近い場所で、庭 の芝生つづきに浜へ出られるようになって いました。

日曜日の午後は、教会員のクラブハウス のようで各年齢の方々が集って、長老会の 方は血圧の話などなさり、青年達は海へ出 て魚や貝を採ったり泳いだり、お部屋では 若人たちが「このお菓子食べちゃうと代り が出るよ」とパクパク食べてしまうと、昌 子様が見つけてお代りの菓子鉢を持って来 て下さるという具合でした。「ホラネ」とい うように、いたずらっ子たちはウィンクし たり、みんな我が家のように楽しませて頂 いていました。

私共女子青年会も、週日に二階を拝借し て聖書研究会を開いて、白井牧師のお話を 承ったことも度々でした。お話の内容はき

れいに忘れてしまいましたが、終った頃、

亀尾夫人が、「これは吉田から先生へのプレ ゼントです」とコーヒーをお持ちになりま した。先生は、「皆さん済みませんね。吉田 長老のコーヒーはアメリカ仕込みで抜群で すよ」とおっしゃって召し上がっています。

昌子さんが「私達も二十歳過ぎたのにま だコーヒーは飲ませて貰えないのよ。いつ までも子供扱いなんだから」と口惜しがっ ていらっしゃいました。

今時と違って私共の育った頃は二十歳ま ではお酒は言うまでもなく、コーヒー、お 化粧、ハイヒールは「発育上の理由から駄 目よ」と言われていました。

吉田様とは家も近く、我が家は停留所か ら反対側の山麓でした。昌子様とは女子青 年会で、弟達も同級生が二組もあり、お親 しくして頂きました。

昌子様が佐柳氏と結婚され、私も廣瀬の 妻となって、どちらも子持ちになってから も親と同居していましたので、子供を連れ て度々お邪魔をして楽しませて頂きました。

日本へ引き上げて来て十年位たった頃か と思いますが、千代田教会のことを知らせ て頂きました。知人が一人も居ない当地へ 来て淋しい思いをしていましたので、嬉し くて、早速、夫の許しを得て上京し、御徒 町の親戚の家に泊めて頂き、千代田教会に 電話をしました。なつかしい白井先生のお 声が道順を教えて下さいました。当時は都 電がありましたので、本塩町で降りて雪印 乳業の横の細い道を下って、お豆腐屋さん の角を過ぎると教会の前に出ました。

先生も奥様もいつもの通りニコニコと迎 えて下さり、私は新潟名産の村上堆朱の箸 箱と奥様用に小筥を差し上げました。吉田

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亀尾夫人もかけつけて下さって本当に楽し い出逢いでした。

その後、娘達が東京の大学へ行くように なり、上京する機会も増えて、教会へも度々

出席し、旧知の方々にお目にかかりました。

ある時、広島からいらした柴田亨様が、礼 拝の帰りに「大連会をしよう。僕のおごり だ」と言って、萩原さんの知り合いの新宿 歌舞伎町の中華料理店へ案内されました。

千鶴子夫人、佐柳昌子様その他で七人位だ ったと思います。ギョーザをどんどん註文 して大連の話がはずみ、他のお客様も「大 連だって」と聞耳を立てる程でした。

その後、大連西広場の会にも参加させて 頂くようになり、大岩様御夫妻や色々な方 にもお逢い出来、聖書学校の生徒さんだっ た方にも御挨拶されたり、色々楽しいお集 まりでした。近年は老齢のため、夏まけで 秋になると体調が悪く、上京出来なくなり 残念です。

はじめて千代田教会に伺った頃に大学生 だった長男は、伊藤忠商事停年退社後、日 本語教師の資格をとり、現在メキシコに行 っています。地元の新潟で就職した次男夫 妻が、老齢の私共夫妻の世話をしてくれて、

可愛い孫達と六人ぐらしです。近くに長女 一家、次女一家、孫、曾孫まで居て、本当 に恵まれた人生だったと感謝して暮らして おります。

広瀬千春さんのご紹介

広瀬千春さん(旧姓金崎)は大正3年の生 まれで今年、90才、現在は新潟県でご主 人と共にお子さん、お孫さんに囲まれ、お 元気で平和な生活をしておられます。下関 の梅光女学院時代に下関教会で洗礼を受け、

長い教会生活をしてこられました。新聞社 勤務だった父上、また三井物産に勤務だっ た御主人に伴い、中国、満州の各地で学び、

生活されました。特に大連時代の結婚前の 時期は、白井慶吉牧師の下、女子青年会の リーダー、日曜学校教師など忠実に奉仕さ れました。梅光の先生だった荒井寿子さん、

先輩の吉川さん達とご一緒の教会生活でし た。1947年大連から引き揚げ、新潟県 にお住まいになりますが、1955年千代 田教会に転会、以来ずっと千代田教会員(不 在会員)です。広瀬さんの自分史「山鳩の うた」は教会図書にあります。この度「羊 の群」の寄稿をお願いしたところ快諾して くださって早速原稿を送ってくださいまし た、感謝です。(四竃 揚)

リンパ浮腫との闘い

蓮香 榮恵

私は只今から丁度三十年前になりますと思 いますが、子宮がんを患いまして子宮摘出 の手術を受けたので御ざいます。手術はは じめての経験で御ざいましたので心身共に 疲れ果てました事を思い出しますが、手術 の終りました時は胸をなで下ろして神様に 感謝の祈りを捧げましたことを思い浮べま す。

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然し、私の只今までも治り切れませぬリ ンパ浮腫と申します病気は、手術後一年頃 から、乳がんの方は手術されましたほうの 腕が、そして子宮を取りました人は両足と それぞれ違いはありましても、次第にむく みが出てまいります。何とかしなくてはと、

早速手術をして頂きました先生に診て頂き 乍らお話伺って参りましたが、先生は思い のほか、「今の日本の医学では何とも致し方 はありません」とあっさり申されまして、

致し方なくあちこちの病院や医師を訪ねま したがわかりませず、途方にくれて居りま した。

ある時、丁度朝のNHK のニュースで「四 国徳島医大の加藤先生と仰います教授がリ ンパ浮腫の治療を開発なさいました」と報 じられました。全く感激の至りで御ざいま した。それから早速に徳島医大の住所や先 生のお名前、外来の日などお電話致し伺い まして、一人で訪ねます日の準備を致しま した。出発の日は家族に羽田迄見送られま して、一時間余りで徳島に着き、翌日先生 をお訪ね致しました。

その時はじめて弾力ストッキング(強い ゴムが普通のストッキングにおりまぜてあ る)を経験しましたが、はじめての者が一 人ではとてもはけませぬもので、先生も助 けて下さいました)。

若しや入院させて頂きましてと思いまし て用意丈致してまいりましたが、もうすで に入院待ちの方が二百名ですとか、又次の 時にと思いました。そして東京では、加藤 先生と御親しくして居られました広田彰夫 先生を御紹介下さいまして、それ以来、一 ヶ月に一度は先生のクリニックに伺いまし て、足の様子など診て頂き乍らお話しさせ

て頂いて居ります。

本年二月末頃、又も「乳がん」の疑いが ありますとの検査結果が出まして、二週間 ほど入院致しましたが、手術も麻酔の完璧 さを知りましてからは心配も一切なくなり まして、おだやかな思いの内に手術を受け られましたことは、やはり神様への感謝を 忘れますことは出来ません。次々とたび重 なります病に疲労も御ざいますが、もう一 度健やかなる肉体を下さいませと切に切に 祈り居ります。

リンパ浮腫とはリンパ液の流れの悪いため に起ります症状ですので、マッサージが何 より大切と三十年を通して思い知らされま して、只今週に二回リンパセラピストとし て御活躍の先生御二人にいらして頂き、大 変幸せ致して居ります。

蓮香榮惠さんのご紹介

蓮香榮惠さんは教会創設当初からの教会 員です。若いときから日曜学校教師や婦人 会幹事、また長老として、教会の維持発展 に大きな働きをしてこられました。このと ころ体調を崩して外出が困難な情況におあ りですが、一日も早い快復をお祈りいたし ます。ドイツ在住の西山亜紀子さん、オー ガニストの大友麻理さんは蓮香榮惠さんの お孫さん、また川村鎭江さんは蓮香榮惠さ んのお姉様です。

奥井家に咲く花

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ロスアンジェルス在住の

桑原淑子姉からのお手紙

荒井眞様

「羊の群」7 号を お送り頂き、たいへ ん 嬉 し く 拝 見 し ま した。また、岡崎大 祐さん、多田實さん の 近 況 等 お 知 ら せ 下 さ っ て 有 り 難 う ございました。四竈 牧師のご活躍で、会員の方々が出来ること は協力して教会の運営を助けていらっしゃ ること、6 人もの受洗者がおありになった りとか、素晴らしいことです。

「羊の群」の吉田満穂先生のお話や、お 写真もとても懐かしく拝見しました。満穂 さんが信濃町教会の副牧師をしておられた 頃(白井先生が引揚げて帰って来られる前)、 1 年足らず私は信濃町教会に通っていまし たので、その頃の満穂さんが教会の一室に 住んで訪問者の人々の応対にお忙しかった こと、存じませんでした。

満穂さんが立って話しておられ、会衆の 前にはランチボックスが並んでいる写真も、

虫メガネというのか magnifying glass を 取り出して眺めたり……、受洗式の写真、

鈴蘭の花、紫と白のお花、橋本茂さんや四 竈夫人の記事も感心して読みました。包子 他の写真(美味しそう!)、奧井さんはどの 方? 千代田教会で時々お目にかかったあ の方かもと、西広場会 50 周年の写真と名簿 を見たり、奧井家で男性 4 人のお写真を眺 め、やっぱりあの方でしょうと確認しまし

た。

「羊の群」を頂いた時は 2〜3 日、お手紙 と共に何回も読んだり、美しい編輯に感心 して私の教会の日本語部の牧師・宮川裕美 子先生にもお見せしたりしました。(中略)

千代田教会の発展と会員の方々のご健康 をお祈りします。

桑原淑子 桑原淑子さんのご紹介

桑原(旧姓:木船)淑子姉は、千代田教会 の創立当初から、結婚して渡米されるまで の 11 年間、青年会メンバーの一人として活 躍された方です。「千代田教会五十年の歩 み」167 頁をご参照ください。

・・・・・・・・・・・・

8 月 15 日、定例祈祷会で崔炯奎(チェ・

ヒョンギュ)さんの証しがありました。崔 さんの選んだ聖句はコリント 13:13、

讃美歌はⅠ編の312 番と 461 番でした。金 銀子(キム・ウンジャ)夫人の祈祷が韓国 語でなされ、崔さんが通訳されました。

引き続いて、崔さんご一家を送る会が持

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たれました。司会永松信行さん。梅本順子 さんの奏楽で、讃美歌Ⅰ-30 番を歌い、鈴 木志津恵さんの食前祈祷ののち、恭子夫人 作の散らし寿司、お吸い物の愛餐会。デザ ートの西瓜を石井房恵さんが絶妙の大きさ に切り分けてくださいました。

松野俊一名誉牧師の餞の言葉、荒井眞さ ん、橋本悠久子さん、萩原好子さんのスピ ーチののち、崔有鯉(チェ・ユリ)さん、

崔有廷(チェ・ユジョン)さん、金銀子(キ ム・ウンジャ)夫人、崔炯奎(チェ・ヒョ ンギュ)さんの順でお別れのご挨拶があり ました。讃美歌21-81 番「マラナタ」を歌 い、四竃掦先生の送別の辞と祈祷で会を閉 じました。(永松信行記)

日本留学、豊かな主の御恵み

崔炯奎(チェ・ヒョンギュ)

私が日本には じめて訪れたの は、1993 年日韓 自治体の人事交 流の一環として 8ヶ月間鳥取県 で研修を受けた ときのことです。

以来10年間、

日本語を修得し、

日韓の国際交流分野で働きながらいつも夢 みていたのが日本留学でありましたが、2 002年9月から2年間、桜美林大学で国 際観光を研究する機会があり、家族を連れ て来日しました。

我が家族にとって、この2年間は、主の 御守りの中で健康と信仰を守り、日本語と

日本での生活を体験することのできた大変 実り多い期間でありました。これは「感謝」

以外に他の言葉が見つからないほど、豊か な神様の御恵みではないかと思います。

一昨年、千代田教会の壮年会で「韓国人 から見た日本」というテーマで皆様と意見 を交わしたこと、去年のクリスマスの記念 礼拝では、家族みんなが韓国語で「ノエル」

を賛美したのはとてもよい思い出となりま した。

また、大学では2年間の研究成果が認め られ、修了することができたことと、四竃 牧師と松野名誉牧師のすばらしい説教をも とに日本語の聖書を学ぶことのできたこと は大変意義深く思っています。

日本の教会は「聖書」、韓国の教会は「祈 祷」、台湾の教会は「賛美」が中心であると お話を聴いたことがありますが、まさに日 本の教会では聖書研究が進んでいると改め て感じました。

私は韓国に帰りますが、千代田教会の皆 様との交わりとご縁はこれからも大事にし ていきたいと思います。

わが家族が住んでいる江原道春川(チュ ンチョン)市はソウルから東方面に特急列 車で1時間40 分の距離にありますが、最近、

テレビドラマ「冬のソナタ」のロケ地とし て日本からの多くの観光客が訪れています。

もし、韓国においでの機会がありましたら、

是非、春川にも足を伸ばしていただければ と思います。2年間大変お世話になりまし た。

「平和の灯火」を思う

金銀子(キム・ウンジャ)

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いつも我らのそばにいて、すべてを守っ てくださる神様に感謝いたします。

また、我が家族をあたたかく迎えてくださ った千代田教会の四竃牧師ご夫妻をはじめ とする教会員の皆様に心よりお礼申し上げ

ます。

千代田教会では、我が家族のためにハン グルの聖書を備えてくださいましたが、私 はその聖書を見た瞬間、とても嬉しくて、

この上ない幸せを感じました。そのハング ル聖書は、私にとって、日本語の勉強はも ちろん、日本での信仰生活に大きな力とな りました。時には、日本語が話せなくて失 敗したこともあり、間違って話してしまっ たことを後悔したこともありますが、いた らない私にいつも親切にしていただいた皆 様に改めて感謝を申し上げたいと思います。

この2年間を振り返ってみますと、私は 主婦として夫や子供たちの健康を守り、子 供たちが学校で適応するように育てること を最優先にしていました。また、日本は物 価が高い国ですが、家計を何とかやりくり しました。どの国でも節約しながら生活の 知恵を発揮すれば克服できるのではと思い ます。

生まれてはじめてひどい風邪を引き、東 京女子医大の救急室に運ばれたことがあり、

お医者さんと看護婦さんの皆さんがとても

親切にしてくれたことが思い出されます。

そのほか、韓国では北朝鮮からの脅威を感 じますが、日本では「地震」が一番怖かっ たと思います。

また、日本の各地へ旅行する機会があり ましたが、そのなかでも「広島」が一番記 憶に残っており、今でも広島平和記念公園 の「平和の灯火」が目に前に浮かびます。

韓国に帰ったら、教会の早朝祈祷会に毎日 出席し、世界の平和のために神様にお祈り したいと思っています。

最後に、千代田教会の上に神様の御恵み がありますように、四竃牧師をはじめとす る皆様のご健康をお祈りいたします。あり がとうございました。

お世話になりました

崔有鯉(チェ・ユリ)

日本に来て迎 える2回目の 夏です。

2002 年 8 月 29 日、成田空 港に降り、湿 気のすごい日 本の蒸し暑さ にびっくりし た時から、そんな暑さを平気に受け入れら れる今の私になるまで、2 年という、長く て短い時間がたちました。

この2 年間、色々とありましたが、一番 嬉しく思っているのは、日本語でろくに一 言も話せなかった私が、今では日本の友達 と楽しく会話ができるようになったことで す。それに、韓国ではかじったこともなか

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ったパソコンを勉強させていただき、とて も嬉しかったです。そして、社会経験の一 つもなかった私がパートタイムのバイトま でできるようになったことなど、私にとっ てこの2 年はとても意味のある時間であり ました。

しかし、そういういろんな経験や上達は、

私自身が一人で頑張ったからできたもので はありません。不可能だったことを可能に させるために必要だったのは、個人ひとり の努力だけではなく、いつも私たちを見守 ってくださる神様の御恵みがあったからこ そできたことと思います。

また、千代田教会の皆さんは、言葉の違 い、文化の違いを超えて、互いを愛し合う 兄弟のように、私に大きな力となってくだ さいました。

2 週間後、私は韓国に帰りますが、私の 心はいつも千代田教会に残り、毎週日曜日 になると教会の礼拝に出席して、今までと 同じく皆さんと一緒に神様を賛美しながら お祈りしたいと思います。いつまでも、ど こにいても、今のようのようにみんなと同 じ気持ちで同じ心で神様を賛美しましょ う!

今までいろいろお世話になりました。有 難うございました。

日本で感じたこと

崔有廷(チェ・ユジョン)

2 年前、日本に来たときも今日みたいに スッゴク暑かったです。私が韓国で住んで いた春川と比べて、暑くて暑すぎて、もう、

たまりませんでした。

でも、この環境にもやっとなれましたが、

また、韓国に戻らなければなりません。こ の 2 年間本当の 日本を学ぶこと ができて、とて もうれしいです。

最初は、見慣 れない環境に寂 しかったり、早 く韓国に戻りた かったりする日 でいっぱいでし た。

学校では、生徒はみんな韓国人だったの で、何の問題もありませんでしたが、ちょ っと外に出れば、みんな私と違う国籍を持 った人々だという思いで、違和感もありま した。でも、いろんな所を旅行したり、遊 びに行ったりして、私はちょっとずつ日本 が好きになりました。面白くて見所のいっ ぱいある国だなーって思ったのです。

服とかアクセサリーとかもすごくかわい くて、街に出るとカッコイイ人とかおしゃ れな人たちでいっぱいでした。それで、私 もあんな風になりたいとか、やりたいと思 って、自然に日本語も習うようになりまし た。

それで今は韓国に戻りたくないぐらい日 本が好きになっちゃいました。韓国に帰っ ても、日本のみなさまの自然を大切にする ことや、大人になっても童心を持ち続ける、

心優しさは忘れられないと思います。

この2 年間、本当にありがとうございまし た。

編集後記

8 号も盛りだくさんの記事。お手紙ありがとうござ いました。崔さん御一家の皆さん、お元気で。交 わり感謝です。(橋本)

참조

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