2019 年 6 月 3 日 水野直樹 はじめに:植民地期の朝鮮女性が医者になること ・映画「家なき天使」(1941 年)「望楼の決死隊」(1943 年) ・女性の社会的・経済的地位 ・朝鮮女性を取り巻く医療の状況はどのようなものだったか? ・女性が医者になる道は? ・歴史事実としての京城女子医学専門学校(1938 年開設) 医学史(医師養成教育史)の観点 近代朝鮮・植民地・戦時体制の一面を示すものとして女性医師養成の歴史を検討 先行研究 佐藤剛蔵『朝鮮医育史』佐藤先生喜寿祝賀会, 1956 高麗大学校医科大学校友会編・発行『明倫半世紀:高麗医大 50 年史』1988(第 1 章「京城女子医学専門学 校」) 奇昌德『韓國近代醫學敎育史』서울:아카데미아,1995(第 8 編「私立女子醫學教育」) (奇昌徳「私立女子醫學教育」『醫史學』第 2 巻第 1 号、1993 年、はほぼ同じ内容) 백운기・김상덕「경성여자의학전문학교 창립의 주체였던 김탁원·길정희 부부는 왜 실제 설립 과정에서 제외되었는 가?」 (延世醫史學, Vol.13 No.1, 2010) 백운기・김상덕「김종익의 유언과 경성여자의학전문학교 설립과정」(延世醫史學, Vol.14 No.1, 2011) 이근환「1930~1940 년대 의학교육과 병원설립에 관한 연구 : 경성여자의학전문학교를 중심으로」고려대학교 교 육대학원(석사논문)、2008 (その他の文献) 吉貞姫『나의 自敍傳 : 韓國女子醫學敎育 回顧』서울: 三頀出版社, 1981 鄭求忠『(韓國)醫學의 開拓者1』서울: 東方圖書, 1985(うち「金鐸遠」) 中央日報出版部編『나의 交友錄』中央日報・東洋放送、1977 年(うち鄭求忠の回顧録) 1 植民地期朝鮮における医師養成機関 付表 p.8 (1)京城帝国大学医学部 1926 年開学(予科は 1924 年) (2)医学専門学校 ほとんどは病院付属の医学講習所から昇格 京城医学専門学校(1916 年) 平壌医学専門学校(1933 年) 大邱医学専門学校(1933 年) 咸興医学専門学校(1944 年) 光州医学専門学校(1944 年) セブランス連合医学専門学校(1917 年) (済衆院医学校 1886 年、セブランス病院医学校 1909 年開 設)
식민지의 가난한 여성이 의사가 된다
―식민지 조선에서의 여의사의 탄생―(1)(2)いずれも原則として男子のみ入学。 日本人学生が朝鮮人学生より多い。佐藤剛蔵は朝鮮人学生数を実際より多く推定。 咸興、光州の2校は戦時期の医者(軍医)不足に対処するために開設。 2 朝鮮における女性医師 (1)最初の女性医師 朴エスター(金點童) 済衆院婦人科・梨花学堂教師の R・ホール(Rosetta S. Hall)の勧めで、1895 年米国ボルチモア女子医科大学に留学、1900 年卒業、帰国。典医、保救女館・王立広恵女院(平壌)な どで診療に従事。1910 年死去。 (2)日本留学 付表 p.8 1910年代から東京女子医学専門学校などへの留学 東京女子医学専門学校卒業者 許英粛 大正 6 年度卒(1918 年 7 月) 李光洙と結婚 鄭子英 大正 7 年度卒 指定後 大正 9 年度卒 朴 貞 大正 7 年度卒 指定後 大正 11 年度卒 玄德信 大正 10 年度卒 劉英俊 大正 12 年年度卒 吉覓石 大正 12 年度卒 (吉貞姫) 韓小濟 大正 12 年度卒 李德耀 大正 13 年度卒 (以上、『東京女子医学専門学校一覧』昭和 3 年度、より) (3)京城医専への特別入学 1918年 京城医専に特別入学した金英興、安壽敬、金海老(金海志)が卒業(毎日申報 3 月 26 日) 校長佐藤剛蔵が特別に入学を認める 金英興、安壽敬は卒業後、ホール夫人経営の東大門婦人医院に勤務(同 4 月 30 日) 3 京城女子医学講習所と女子医専設立運動 (1) 京城女子医学講習所 1928年 ホール夫人により設立 「朝鮮女子医学講習所」「東大門女子医学講習所」とも記される (東亜日報 1928 年 7 月 11 日、東亜日報 1930 年 11 月 15 日) 1933年 7 月 貫鉄洞の金鐸遠医院に移転(東亜日報 1933 年 7 月 8 日) 8月 講習所経営をホール夫人から金鐸遠・吉貞姫夫妻が引き継ぐ(東亜日報 8 月 9 日) 附属医院も設立、「京城女子医学講習所」に改称?(東亜日報 8 月 30 日) 1933年 11 月 講習生 2 名が医師試験に合格(東亜日報 1933 年 11 月 16 日) 1934年 5 月 講習生 3 名が医師試験に合格(東亜日報 1934 年 6 月 1 日) 1934年 6 月 9 日 第一回卒業証書授与式(東亜日報 1934 年 6 月 8 日) 1936年 5 月 講習所修了生 2 名が医師試験に合格(東亜日報 1936 年 6 月 3 日) 1936年 6 月 第二回卒業式(東亜日報 1936 年 6 月 17 日) 1938年 11 月 講習所修了生 2 名が医師試験に合格(東亜日報 1938 年 11 月 14 日) (3 期生以降は京城女子医専に編入) 金鐸遠略歴 1898年大邱に漢方医師の次男として生れる。京城医学専門学校在学中、三一独立運動の学生グループの 1 人として活動。パゴダ公園での集会・デモで検挙され、懲役 7 ヶ月の刑を受ける。医専を除籍されたが、そ の後復学して 1924 年に卒業。東京・北京でも勉強。西大門に金鐸遠精神神経科医院を開業。吉貞姫と結婚 。
新幹会執行委員、朝鮮物産奨励会理事、朝鮮癩病患者救済研究会常務委員、満洲同胞問題研究会調査部委員、 漢城医師会会長などとして活動。1939 年 3 月 14 日肝臓炎で死去。 ◆他の医学講習所修了者の医師試験合格 1927年 平壌慈恵病院付属医学講習所 安誠淑(東亜日報 1927 年 10 月 15 日) (2)女子医専設立運動 1928年 5 月 19 日 「朝鮮女子医学専門学校」創立期成会発会 ホール夫人を中心に有志 60 名余り、西大門の金鐸遠病院で開く(東亜日報 5 月 20 日) 吉貞姫、劉英俊、安寿敬、許英粛、鄭子英らの女医が中心 1934 年 4 月 3 日 財 団 法 人 女 子 医 学 専 門 学 校 発 起 準 備 会 委 員 長 朴 泳孝 常 務 委 員 呂 均 、 辛 日 鎔 、 金賛成、金鐸遠、吉貞姫、朴仁徳、白寛洙、李鍾麟、李仁、辛泰嶽、黄愛徳、李寛洙 準備委員 呂運亨、崔元淳、趙東植、洪愛施徳、金尚昊、黄信徳、金基徳、玄東完、崔昌学、趙信聖、 徐丙朝、韓小済、安炳吉、方義錫、鄭子英、鄭雲用、張吉相、尹致昊、呉兢善、玄俊鎬、宋 鎮禹、梁柱三、兪億兼、申興雨、金活蘭、金美理士、朴興植、崔麟、朱耀翰、金 炳魯、方応 模、李甲洙、曺晩植、劉英俊、安在鴻、李光洙、金性洙、李相協、許憲、金良洙など (東亜日報 1934 年 4 月 5 日、4 月 12 日、4 月 22 日、毎日申報 4 月 5 日) 東亜日報 1928 年 3 月 26 日社説「女子의職業教育에 對하야 女子醫學校設立説을듯고」
(毎日申報 1934 年 4 月 24 日) 4 京城女子医学専門学校の開設 (1) 金鍾翊の遺産 金鐸遠が金性洙に資金集めについて相談。縁戚の金鐘翊を紹介される。 金鐸遠は宋鎮禹、李仁、鄭求忠らとともに金鍾翊に女子医専設立支援を説得。 金鍾翊 代々続く順天の大地主。金性洙の家とも同門。(毎日経済 1968 年 9 月 26 日) (関係会社)朝鮮製糸(株、京城)理事、のち社長 (朝鮮製糸は 1936 年に解散) 朝鮮殖産銀行(株) 株主、元東貿易(株、釜山)相談役、東一銀行(株) 大株主、朝鮮京南鐵道(株、天安) 株主、 朝鮮取引所(株)株主、金剛山電氣鐵道(株) 株主、朝鮮京東鐵道(株、水原)株主、華城自動車(株)株主 1937年 5 月 6 日 金鍾翊が赤痢のため京城帝大附属病院で死亡。 遺言:京城女子医学講習所を女子医専に昇格させるために 30 万円 同女子医専附属事業として結核療養院新設に 35 万円 など (2)認可の経緯 設立準備委員会設置 鄭求忠、金鐸遠、崔棟、李仁ら 5 名 総督府学務局は認可の意向を示す。土地・校舎の貸与・斡旋、補助金の支給も約束(吉貞姫の回顧) これとは別に、金鍾翊夫人朴春子が京城医専校長の佐藤剛蔵に女子医専設立への協力を依頼。佐藤は学務局 長塩原時三郎に交渉、塩原が即座に認める意向を示す(佐藤剛蔵の回顧) 2つのルートが統合? 校長に鄭求忠、理事に朴春子、佐藤剛蔵、金鐸遠、李仁らが内定 1938年 2 月に総督府が認可(認可書は 4 月 8 日付)、4 月末に佐藤が校長に就任。 5月 3 日から入学試験、16 日開校式。 総督府補助金 5 千円? 2 万円? 5 京城女子医学専門学校の運営 (1) 経営主体 財団法人友石学院(理事長は金鍾翊の長男金杜洙、後見人として朴春子)
(2) 学則と生徒心得 京城女子医学専門学校学則(1938 年 4 月 8 日認可、1940 年 4 月 1 日改正) 第一条 「本校ハ朝鮮教育令ニ依リ女子ニ医学ヲ教授シ特ニ 国民道徳ノ涵養、婦徳ノ養成ニ意ヲ用ヒ以テ忠 良至醇ナル皇国女性ヲ養成スルヲ目的トス」 第 21 条 「保証人ハ独立ノ生計ヲ営ム父兄、親族其ノ他ノ者ニシテ本人ニ代リ一切ノ責ヲ負フニ足ルヘキ 資力アル成年者タルコトヲ要ス 保証人〔二名〕ノ中一名ハ京城府内ニ居住スル者タルヘシ」 予科入学資格:高等女学校卒業、専門学校入学者検定試験合格者、「朝鮮総督ニ於テ一般ノ専門学校ノ入学 ニ関シ修学年限四年ノ高等女学校卒業者ト同等以上ノ学力アリト指定シタル者」 授業料 年額予科 100 円、本科 150 円 実習料 年額予科 20 円、本科 50 円 卒業試験料 30 円 学科課程 外国語に支那語 その理由は? (3) 教員の構成 付表 p.7 校長を除く教授・助教授のほとんどは朝鮮人 京城帝大医学部・京城医専の卒業生が中心 教授の多くは京城女子医学講習所で教えた経験がある 講師 17 名はほとんど日本人 助手 12 名はほぼ朝鮮人、3~4 名は女性 旧職員(教授など)12 名のうち朝鮮人は 2 名 当初は日本人教員に依存する面があったが、次第に朝鮮人教員に置き換えた? (4)学生 第一回入学試験 107 名受験予定(毎日新報 1938 年 5 月 4 日) 第二回入学試験 志願者 75 名(毎日新報 1939 年 3 月 23 日) 第三回 志願者 129 名(毎日新報 1940 年 3 月 17 日) 1941年在籍生徒数 学年 内地人 朝鮮人 計 予科 18 51 69 本科第一学年 11 51 62 本科第二学年 10 42 52 本科第三学年 4 50 54 合計 (比率) 43 (18.1% ) 194 (81.9%) 237 (100%) (『京城女子医学専門学校一覧』1941 年) 卒業者数 朝鮮人 190 名、日本人 10 名 合計 200 名 付表 p.8 京城女子医専の志望者、入学者 ●李仁模(非転向長期囚で北朝鮮に送還)の妻金順任も医専志望(実際には元山のルーシ高女に通う) 「妻もわたしと同郷の豊山の人で、実家は解放前旅館業を営み、暮らしはわりに豊かだった。妻の母方の祖 父が元山で醸造場を経営した関係で、妻は元山のルーシ高女に通った。京城医専を志してソウルに行ってい
たときにわたしとめぐりあい、・・」(李仁模『信念とわが生涯』平壌、外国文出版社、 1997 年、98 ペー ジ)。金順任は解放後、党豊山郡委員会婦人部長などを務める。 ●京城コムグループのメンバー李鉉雨(1916~?、ソウル出身)は、崇仁普通学校、京城女子商業学校を卒 業した後(商業学校在学中に社会主義読書会活動に参加)、1936 年から京城医学講習所、京城保育学校に 通い、1939 年 4 月に京城女子医学専門学校本科に進んだ。京城コムグループに参加して、1941 年に検挙 された(『韓国社会主義運動人名事典』389 ページ)。 ●兪淑根(京城医学専門学校最初の朝鮮人教授・細菌学者兪日濬の娘) 1921~2001 同徳女子高等普通学校卒業、1938 年京城女子医専入学、1942 年 9 月卒業。助手として残った 5 名のうち の 1 人(微生物学)。のち講師。夫金泓基は 1948 年南北連席会議時に越北。兪淑根も娘を連れて朝鮮戦争 時に北朝鮮に行き、1952 年から科学院微生物学研究所研究員、医学科学院研究所副所長。紅疫予防、肝炎 予防などを研究。72 年博士号授与、労力英雄称号・金日成勲章。82 年最高人民会議代議員、87 年人民科学 者称号。娘김영진も平壌医科大学教員(遺伝子医学)。 ●1943年に京城第一高等女学校を卒業した沢井万里子の記憶では、同年の卒業生約 200 名のうち、5、6 名 が京城女子医専に進学したという。また京城女子医専は「外地でただ一つの女子医学専門学校だったため、 満州から入学してくる者もいた」という(沢井理恵『母の「京城」 私のソウル』草風館、1996 年、113 ページ)。「内地」の女子医専ではなく京城女子医専に進学したのは、経済的負担や戦争の激化による交通 の不便などの問題があったからであろう。 (5)戦時体制の下で 1941年 6 月 附属病院建物竣工 9 月開業 院長成田夬介、医師は朝鮮人(毎日新報 1941 年 8 月 26 日) 1941年 9 月 校長が佐藤から高楠栄に交代 1941年 10 月 開校式に南次郎総督、真崎長年学務局長ら出席・告辞 1942年 9 月 30 日 第一回卒業式 入学 68 名のうち 47 名卒業(うち朝鮮人 43 名) 戦時の授業年限短縮措置(1941 年 10 月から実施)のため半年早く卒業 総督小磯国昭が出席・告辞 1947年 5 月に第五回卒業式(以後はソウル女子医科大学に) (6)解放後 1945年 10 月 2 日 朝鮮人教員により大学昇格のための準備委員会組織 1948年 ソウル女子医科大学 1957年 首都医科大学(男女共学) 1964年 友石大学校(総合大学) 1971年 高麗大学校医科大学に統合 終わりに 「近代性」「女性」 ・女性(および子ども)のための医者の必要性 ・女性が医者を職業として選ぶ ・キリスト教医療宣教 ・日本による近代医学教育(京城医専、京城帝大医学部) 「民族」 ・「民族医学」 産婦人科、小児科の重視 ・朝鮮人の力(財力、人材)で設立 「植民地性」 ・戦時期の医学・医療政策から自由ではなかった