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近代日本 と 道徳主義的儒教

문서에서 유교와 근대 국민 경제학의 상상 (페이지 119-122)

以上、徳川日本では儒教朱子学社会的言説としては18世紀末以降に ようやく民間流布浸透したのであり、清朝朝鮮王朝とはそこにきな 差異があった。 しかも、民間儒教ということであれば、それは形而上学的体 系というよりも、教化思想特化した道徳主義的なそれであり、また宗教的 には神仏習合的仏教強固存在していたこともあって、葬祭儀礼との 関わりもいものであったことにも留意しなければならない。

とりわけ、近代日本がそれとして継承した儒教とは、朱子学体系古学派議論反徂徠学派の 「公共性 」 もさることながら、このような道徳主義的 なもの(儒教倫理)であったことにまず注意しなければならない。 近代以降 教ㆍ朱子学漢学とよばれるようになり、そこにアジア文明圏なる 想、普遍思想としてあった儒教が、西洋的日本的ではないという意味 めた 「支那思想 」に変質せしめられつつある様相える必要があるが、こ こで重要なのは道徳主義的内容儒教倫理され社会有機体論などと 合されたことである22。 ここに、清朝朝鮮王朝における儒教朱子学近代きくなるがある。 無論道徳主義的といっても、一方でそれは 「東洋精神 」にわるものであってみれば、軽視できるものではなく、なくとも 20世紀中期までは道徳としての儒教倫理という認識は、日本け た(このは、渋沢栄一[1840-1931]の発言として最後れる)。 さらに、

22 石田雄 『 明治政治思想史研究 』 未来社、1954年。

とりわけ東洋的なものが(日本的なものが)想像されるときには、儒教はその つにげられることにもなった。 日本から勝手アジア(東洋)との

連携 」「連帯 」がばれるときにも、漢字んで(東亜同文会など)、儒教は そのげられた23

だが、近代日本漢学(儒教)と徳川日本とりわけ18世紀までの儒教朱子 学とは、その内実きくなるものであった。 その相違点として、近代 承したそれがとして道徳主義的であったことはにのべたが、そこから派生 する問題として、ここでは重要である。 すなわち、形而上学的 論、たとえば17世紀にはくの儒者朱子学者ませた理気論などは近代 以降ほとんど検討されることはなくなり、形而上学形而下学的部分には近代 自然科学や西洋的知識、あるいはキリスト教的信仰されるタイプの 識人がられるようになったことである24。 それは啓蒙思想家初期キリ スト教系知識人のみならず、国民道徳論唱道し、あるいは教育勅語制定 などにわった国粋主義的儒教系知識人、さらに(偏差はあるものの)アジア 主義系知識人とえられるタイプにおいても同様であったといわなければなら ない(中村正直[1832-1891]、内村鑑三[1861-1930]、井上毅[1844-189 5]、井上哲次郎[1856-1944]など)。 かくて、例外的西洋知識受容消極 的であり、中華主義的自他認識依然として保持していた儒者朱子学者 は(安井息軒[1799-1876]や池田草庵[1813-1878]などを念頭いてい る)、とりわけ日清戦争後にはほとんど市民権い、その何人かはやが て確立するであろう 「近代支那学 」 となっていくのである25。 こうした現象

23 中村春作 『 江戸儒教と近代の 「 知 」 』 ぺりかん社、2002年。

24 渡辺和靖 『 増補版明治思想史 』 ぺりかん社、1985年。

25 町田三郎 『 明治の漢学者たち 』 研文出版、1998年。

東アジア文明圏辺境部儒教後進圏であればこその事態えられる。

一方、教化客体とされた民衆には、天皇制教化思想結合した儒教的徳 目が、 「教育勅語 」や修身などの学校教育軍隊などをじて普及せしめられ ていった。 それは、や 「東洋覇者 」として宣揚される国民ナショナリズムの 不可欠の構成要素として、また西洋化近代化矛盾のないものとされた。

もっとも、たとえば 「教育勅語 」にしては、なくとも明治期には 「体系的価

値 」をもつものとはなされず、そこにされた内容はそれぞれ独立した 「

俗道徳 」としてしかえられていなかった26。 天皇制と儒教的徳目には、

なおめがたい乖離存在していたのである。

同様に、いかに道徳主義的なものであったにせよ、儒教とされたものが 民ナショナリズムの一部まれたことは、知識人間にも深刻煩悶を 生んでいた。 どのように誤魔化そうとも、孔子孟子朱子は 「支那人 」であ り、それらをめた中華文明影響は、漢字しようのない歴然たる 痕跡として眼前存在する。 このことは、知識人にとっては、ときにしよう のないジレンマとなって表明され、近代思想史あるいは近代国語学 のテーマのつなっていくのだ27

付言するならば、19世紀後半以降に、清朝朝鮮王朝における儒教朱子 学がたどったは、近代日本よりも屈折いものであったと推測される。 統派の儒者にあっては、(形而下的一部受容したとしても)西洋知識しい 夷狄の新知識ぎず、なる普遍思想としての儒教朱子学とそれらを結合 する必要性くなかったにいない。 清末老儒柯劭忞(1848-1933)が西洋 知識に無関心であったのも、儒教するいささかもるがない確信

26 籠谷次郎 『 近代日本における教育と国家の思想 』 阿吽社、1994年。

27 子安宣邦 『 漢字論 』 岩波書店、2003年。

あった28。 西洋や日本侵略蛮夷所業であってみれば、いにくべきこ とではなかったである。 だが、やがて国民ナショナリズムとの結合清朝ㆍ 朝鮮王朝でも日程がってくると、そこに深刻葛藤こってくること になる。 たとえば、 『韓国痛史 』『韓国独立運動之血史 』の著者られる朴殷 植(1859-1925)は儒教系知識人といってよいが、 「尚文 」と 「尚武 」のれ つづけ、 「武強 」とじた植民地支配者日本対抗する模索けた29

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