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(現代語訳Ⅳ-㊺)

문서에서 徳冨蘆花の初期作品考察 (페이지 116-121)

 どちらの文を見ても、鳥が「日の使」や「暁を告げ渡たる神使」として、太陽の御使いに 喩えられている。このような喩えは自然スケッチ文の中ではこの2ヶ所で見られる。これが蘆花 の記憶に印象深く残り、お光が陸と空を自由に羽ばたく鳥のような存在として描かれているもの と思われる。

 鳥に比喩されるお光は蘆花が家や兄の束縛から逃れて自由を求めようとした心を表してお り、自然へと帰っていったお光のように、執筆された時期から蘆花も自然と深く関わっていくので ある。

 5) まとめ

 『青山白雲』の「水国の秋」に始まり、「漁師の娘」、さらには『自然と人生』にある 上記の二作品において、霞ヶ浦地方の旅行に関する紀行文・小説・散文詩が何度も繰り 返されている。これらの事実は浮島訪問後、蘆花が「どん底」の精神状態71)から脱出し、

自然詩人として大成する過程において、この旅行が非常に重要な転換点になったことを示すも のであると言えよう。この約1ヶ月半後に東京から逗子に転居し、心機一転した蘆花が初めに 書いた小説がこの「漁師の娘」である。

 この作品では、それ以前の自然に関する文には見られなかったような自然の取り扱われ方が なされていることは、吉田(1992:222)や布川(1993:61)がすでに指摘していることである。また

『新春』にあるように「自然は神です。神は自然です。自然の子は、父の自然に帰らねば なりません」(『蘆花全集第10巻』:283)という蘆花の考えや、蘆花自身が「漁師の娘」に 憧れていたらしい(『蘆花全集第17巻』:193)事実などと合わせて総合的に見ると、この小説 の主人公お光の生き方に蘆花が目指す自然詩人としての原型があると言えよう。大都会での 人間関係のわずらわしさから離れて、父母の居る逗子の自然の中で心が癒され、己れの行く べき道をしっかりと歩み始めた蘆花の姿とお光には通じるものがある。

71)自伝的小説『富士』に、1896年の蘆花が「どん底」の状態であったことが詳細に書かれている。「明治29   年は熊次がどん底に堕ちた最暗黒の年である。」(『蘆花全集第17巻』:28)と蘆花は振り返っている。どん底

の中で、生活費にまで事欠きながらも写生行脚を行った年である。その状態から脱出する一つのきっかけとなっ たと思われるのが、霞ヶ浦地方への旅行である。その年末に逗子行きを決定し、翌年1897年1月3日に転居し て、そこで「漁師の娘」をはじめ、『自然と人生』に収録される多くの作品を執筆することになった。

 お光の自然への回帰は死であるが、肉体的生命の死を超越した永遠なる自然の中に行き 続ける姿が描かれ、肉体の死は魂が自然と一体になることを意味している。死も自然の営み の一側面であり、肉体を離れた魂は自然の中で滅びることのない歌声となり、死は終りを意味 するものではないということがわかる。天と地の媒介体として「水」と「鳥」を用いることで、さ まざまな制約や束縛から自由にはばたこうとする蘆花の心情を表していることがわかる。つまり、

死は終りではなく、親なる神のもとに帰ることと、自由な魂の世界を意味しているのである。

Ⅴ.   結論

  これまで徳富蘆花の初期習作である『靑山白雲』、『自然と人生』、『靑蘆集』を 一つの流れととらえて、これら<自然三部作>の成立過程と自然描写の特徴に焦点をあてて 考察してきた。

 その一環として、第Ⅱ章「<自然三部作>の成立背景」では、まず熊本藩の儒敎的雰 圍氣と家族關係とキリスト教の信仰、そして民友社への入社が蘆花の精神形成にどのような 影響を与えたのか探ってみた。

 儒敎という位階秩序が重要視される環境の中で、自由な魂を持つ少年が自然の中に突破 口を求めたのは當然なことであると思われる。また、近代黎明期において、倒幕の中心勢力 になれなかった熊本藩は、遅れを取り戻そうと、早くから西洋の学問と技術をとり入れた。熊本 洋学校の設立もその政策のひとつであった。この学校で、兄蘇峰をはじめ、姉初子や従姉の 横井みや子らが学び、生徒らは自然にキリスト教に関心を持ち、ついに熊本バンドを結成し た。しかしキリスト教と國家の関係を意識した結盟であったため問題視され、洋学校は閉校に なる。閉校後、キリスト教精神で建学された同志社英学校に学んだ熊本バンドの学生らと蘆 花兄弟達は、引き続きキリスト教の影響圈におかれた。

 彼らはキリスト教の精神から平民主義と人道主義を学び、ここで学んだ精神が蘆花におい ては人道主義として現われ、蘇峰においては國家主義へと発展していった。これが兄弟として 運命の岐路であったといえよう。

 民友社への入社は重大な出来事であった。5歳年長の兄蘇峰の監督下にいたため、蘆花 にとっては心理的な抑圧感と束縛感が大きかった。しかし、優れた英語力を持っていた蘆花は 民友社で新聞記者として働きながら、リアルタイムで世界の動きを知り、西洋の偉人達の思想 や芸術に接することができた。

 <自然三部作>の成立に特に影響のあった芸術家として、トルストイ、コロー、ワーズワー スとの関連性について考察してみた。特に民友社の企画した『十二文豪』シリーズで蘆花が 擔當した「トルストイ」の執筆は、彼の人生において大きな足跡を残した。後日、トルストイに 会うためにロシアに行き、トルストイの家族と寝食を共にするなど、親しく交わった。帰国後には

トルストイのように晴耕雨読の生活を理想として、自らを「美的百姓」と呼び、半農生活を送 ることになる。

 蘆花の自然詩人としての位置づけに寄與した写生修業の来歴と西洋ロマン主義の文人の 影響について探ってみた。蘆花は西歐印象派畵家で、特にバルビゾン派畵家の自然スケッ チに傾倒した。それが自然スケッチの作品と「風景畵家コロオ」という評論を生んだ。

 文人としてはイギリスのロマン主義の代表的な詩人であるワーズワースとアメリカの超越主義 の文人であるエマソンの影響が強く見られた。フランス共和主義に共感していたワーズワース はフランス革命後の成り行きに失望した。人間と社会に失望し、自然と交感しながら傷付いた 心を癒し、その中で作り上げた孤独を愛する世界は、ワーズワースの詩の大きな特徴でもあ る。また、エマソンはロマン主義運動の一つである超越主義を標榜したアメリカを代表する文 人である。その神秘主義的な汎神論が蘆花に大きな影響を与えたことが認められた。

 第Ⅲ章「<自然三部作>の構成と特徴」では、独立した作品集である『靑山白雲』、

『自然と人生』、『靑蘆集』の独特な構成と特徵を分析してみた。これらには共通して「自 然を主として人間を客とせる」という蘆花の確固たる認識が込められている。人間は自然から 生れて自然に帰っていく存在であり、大自然の一部であった。また、大自然を創造主の化身 であるとみている。これはエマソンの思想とも一致しており、日本人の持つ汎神論的な自然觀 とも相通じる。

 第Ⅳ章「<自然三部作>の作品世界」では、まず、学術誌に発表した論文を部分的に 修正して収録した。「<自然三部作>に見られる水の空間とタナトス」、「<自然三部作>

に見られる自然認識」というテーマで、三部作を鳥瞰的に分析した論文である。それに続い て微視的に作品別に分析・考察したものが「「灰燼」について」と「「漁師の娘」につい て」である。

 「灰燼」は、人間の営みが自然の營みに比べると、いかに無力なものであるのかを描いた 小說である。西南戦争を舞台に展開されたことには、西郷隆盛をはじめ、逆賊とされた人々 への蘆花の哀悼の心情があったことがわかった。たとえ前近代的な勸善懲惡というテーマを 扱っていたとしても、自然の威力で人間の不義を斷罪することによって、蘆花特有の人間味と 正義感を表現した作品である。

 「漁師の娘」のお光は鳥の化身として描かれており、それは蘆花の自由を求めて大自然 へと向かおうとする心の表れであることがわかった。そして山と湖に代表される大自然の慈愛と

包容力は「死」という人間的な悲哀を超越していることがわかった。

初期作品の中には、その後に展開される作品の原形が内包されているといわれる。蘆花の 場合も例外ではなかった。『自然と人生』「写生帖」の<可憐兒>には、その後長篇小 說となる『不如歸』、『黑潮』の原形が見られた。即ち社会的弱者や、女性の立場を理

初期作品の中には、その後に展開される作品の原形が内包されているといわれる。蘆花の 場合も例外ではなかった。『自然と人生』「写生帖」の<可憐兒>には、その後長篇小 說となる『不如歸』、『黑潮』の原形が見られた。即ち社会的弱者や、女性の立場を理

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