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夏休の仕事に、熊次 42 ) は旧稿の二三を輯めて、小冊を造った。「角ぐむ蘆」と題名をし ようかとしたが、「青蘆集」に落ち着いた。「自然と人生」程度の気乗りのした道楽仕事で

문서에서 徳冨蘆花の初期作品考察 (페이지 68-71)

それはなく 、云はば小使い取りの仕事に過ぎなかった。 ( 『蘆花全集第1 8 巻』: 1 0 )

 「角ぐむ」とは蘆やススキの三角形のとがった芽が出はじめることをいう。「蘆が角ぐむ」と は本格的な春になったという意味あいを持つ。「内容としても雑然さを免れていない」(中 野:1972b:146)という評価や、「小使い取りの仕事」にすぎないという告白もある。しかし、小 遣い稼ぎという言葉を額面通りに受け取るべきではないと思われる。吉田(1987)は蘆花が「角 ぐむ蘆」と名付けようとしたことに着目する。「生半可な気持ちで取り組んだとのみ解するわけ にはいくまい」と言う。筆者はこの吉田の説にある程度首肯するが、「角ぐむ蘆」という題名 に関して「不穏なもの」という解釈には見解を異にする。蘆の芽生えの様子は勢いよく新緑の 尖った芽が地上に湧き出してくる感覚がある。それは蘆花の純粋さと世態に迎合しない反俗精 神や反骨気質と通じるものがある。「青蘆」とは、兄蘇峰の行く方向性とはっきりと一線を引こ うとした心的態度の象徴であると主張するものである。

 題名を「角ぐむ蘆」から「青蘆」にしたことは、春ではなく夏を表していることになる。その 言葉から、若々しく創作力の漲った成熟していく自然詩人としての蘆花の姿が見られるのであ る。『青蘆集』は<自然三部作>の最後を飾る作品として、蘆花の自然観および人間観を 探ることのできる重要な作品集であると考える。この後、民友社から離れて黒潮社を設立す る。『黒潮』の序文に見られるように、兄からの完全な独立と、兄への対抗意識があること は確かである。しかし決して兄を憎んでいる訳ではない。行く道はそれぞれ違うが、それは善 悪の問題ではないことがわかる。蘆花は兄を恨んでいたのではなく、各々の気質に合う独自の 道を行くことで真の兄弟愛を見せたかったのである。兄に対する尊敬の念は忘れていなかったと 思われる。

 「青蘆」というイメージは蘆花自身の性格を表象していると言える。たくましく自立して生きた いという希望が含まれていると言えよう。

 

42)蘆花自身のこと。『富士』では自分のことをこう呼んでいる。肥後家の「熊次」という名前の由来は熊本出 身であることと、熊のような性格の上に体毛が多かったことなどに関連すると思われる。一方、蘇峰は「寅一」

となっている。

Ⅳ.  <自然三部作>の作品世界

1. <自然三部作>に見られる水の空間とタナトス

 1)序

 蘆花の作品には水辺を背景にするものが多い。蘆花自身水に親しみを感じ、海や水に関 する風物の描写に才能を發揮した作家である。『青山白雲』の中で水と関わりのあるものは

「夏の夜かたり」1)、「数鹿流の滝」2)、「漁師の娘」3)である。また『青蘆集』の「除 夜物語」4)も水に関わる作品である。これらの共通点として、無垢な魂を持つ主人公らはそれ ぞれ海、滝、湖、洪水という水の空間で死を迎えていることである。ここではこれら4編の小品 における「死」の描写について抽出し、考察してみる。

 世界の神話や、聖書などの経典に現れる水の持つ象徴的意味は、(1)生命の源、(2)浄 化の手段、(3)再生の中心という、3つの主要なテーマに還元できよう。さらにガストン・バ シュラール5)は「物質的想像力」6)のうち、水は母性・永遠の生命・浄化などを意味し、さ らには忘却と喪失のイメージも持つと述べている(バシュラール:2008)。

 蘆花の作品には海や川が舞台になっている文章が多く見られる。旅行の手段として船舶を 利用し、そこから見える景色や船上の人々について詳細に描写している。また、蘆花自身、

逗子に転居して創作活動を行ったが、その場所は故郷の熊本県水俣と非常に似ていたという (渡辺・伊藤:2011:99)。バシュラールの「物質」が想像力の源泉となっているという理論か ら見ると、蘆花が幼い頃故郷で体験した海や川のイメージや、水音の記憶が作品にちりばめ られていると考えられる。

 本節では4つの作品について、「水」と関連する「死」のイメージをそれぞれ考察し、そこ に表されている蘆花の心象風景を追究していくことにする。

1)初出は1892年8月6日~21日『国民新聞』に連載された。

2)初出は1895年8月25日『家庭雑誌』で、原題は「夏」。

3)初出は1897年1月25日『家庭雑誌』。

4)初出は1901年1月1日『国民新聞』。

5)GastonBachelard(1884~1962)はフランスの哲学者、科学哲学者。

6)物質をじっと見つめることでひらかれてゆく想像力をいう。「物質的想像力」は火、空気、水、大地という古代  から知られてきた基本的な四元素(エレメント)に分けられると述べている。人間の夢想は、この根源的な物質に

根ざしている。この四元素をめぐる物質的想像力が、人間の夢想を支配しているという理論である。

  2) 「夏の夜かたり」と海での死

 「夏の夜かたり」は、山本久栄との恋愛事件7)を描いた「春夢の記」8)にひきつづいて書 かれた小品である。義姉の実兄倉園秀雄牧師から聞いた実話をもとに「男の一人心中に哀 切の情を抒べたもの」(『蘆花全集第16巻』:15)9)である。「見たこと聞いたこと以外書け ぬ」といった蘆花の言葉を額面通り受け取れば、ストイックな青年の恋と自殺事件を聞いたそ のままを書いたということになる、しかし、時期的に見ると蘆花本人の恋愛事件からまだ5年しか 経っておらず、深い心の傷は癒されていなかった。蘆花が主人公の破婚と死に深い共感を見 せたことは十分想像できる。主人公の松井を蘆花、恋人のきみ子を久栄に見立てて実らぬ恋 物語を綴り発表することで、久栄に対する懺悔としたと思われる10)

 天主教伝道師の松井正夫は武士の子らしい風采であったが、詩人タイプの多感で情深い 人物であった。23才の初夏、夏期伝道のため相州某家に寄寓し、熱心に信仰生活を送って いた。そこで家主の娘きみ子と出会い、二人は恋に落ち秘密で婚約する。きみ子は17才で、

天主教女学校に学び、松井と同じ教会に通う少女であった。恋に夢中になり、伝道が疎か になっていった松井は、ある夏の終りの雨が降る夜、きみ子の母親が新聞に載っていた教師と 女生徒の恋愛事件をとりあげて、教師を非難する言葉を聞く。松井はそれを最後の審判であ ると捉え、己れの誤りを痛感する。そんな時に松井の母親が風邪をこじらせて臥せっているとい う電報が届く。しかし、きみ子が引き留めたため帰宅を一日延した松井は、母の死目にあえな い親不孝者となってしまった。衝撃を受けた松井は昏倒し、3日後意識を取り戻す。しかし自 責の念にかられた松井はきみ子と断絶し、きみ子の父母や自分の父母の墓前に謝罪し、師友 にも懺悔し、天に向って悔悟した。そして松井はすべての職務を辞し、日毎に憔悴していっ

7)蘆花が同志社の学生時代に、校長であった新島襄の姪であった山本久栄と熱烈な恋愛をし、新島をはじめ、

周囲に反対されながらも二人は結婚の約束を交わした。しかし久栄の評判の悪さのため、結局家族に知れるとこ ろとなり、東京の兄姉の前で離別を約束させられた。久栄に対して一方的に離別を宣言した蘆花は、失意と罪 悪感にさいなまれ、学業にも身が入らなくなり、1887年の暮れに遺書を残して同志社を無断退学した。その後鹿 児島に向けて放浪し、2ヶ月後熊本で叔母に発見された。放浪の期間に関する具体的な行動については不明 で、蘆花自身「暗黒の2ヶ月」であったと回顧している。

8)家人の目を盗みながらひそかに書いた。書くことで久栄を忘れようとしたが、それを発表することは家族や新島夫 妻らに迷惑をかけるのでできなかった。1905年12月にそれは蘆花自身の手で焼かれた。それには「醜!醜!

醜!好事の者に寄語す。糞壷を覗くをやめよ。」と書いてあったという。

9)「夏の夜かたり」の前に書かれた翻訳小説「石美人」ではわれ知らず久栄かと思う影の九空しく消えた哀しみを 訴え、「夏の夜かたり」で最後の呼び出しを宇宙の何処に在るとも知らぬ片われにかけたとある。

10)その1年後の1893年7月、久栄死亡の消息を知って、一睡もできなかった蘆花は翌朝「春夢の記」の裏表紙 に「此等の事の終は是なり」と書き、その下に死亡通知の文句を写し取った。7月29日『国民新聞』に発表 された「百合の花」は久栄への手向けの詩であることがわかる。この随筆に後に加筆と削除を加えたものが

『自然と人生』「自然に対する五分時」<山百合>である。

た。やがて秋が来た。

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