大河の流れや激しい風雨を見て感じることは、ナポレオンやアレキサンダー大王のような英 雄である。自然は永遠で、時には非情でもあるが、その大自然の前に佇む蘆花の心は厳か で、深い思索にふけるのである。カーライルの『英雄崇拝論』に感化された蘆花の心の世 界は以下の文章から見ても明らかである。
大河を隔てて呼びかはす此鶏声は実に宣い、チエルシアの賢とコンコルドの哲
27)とは、実 に斯く の如く 大西洋を隔てて呼びかはしたのであらふ。
( 『蘆花全集第3 巻』: 4 4 )( 現代語訳Ⅲ-⑦)
日常生活の齷齪
あくせく
に立雑つて、然も心は挺然として無窮の天に向ふ偉大の人物は、実に 斯く の如く であるであらふ。自分は上州に行く 毎に、山が斯く 囁く 様に覚ふるのである。
( 『蘆花全集第3 巻』: 4 5 )( 現代語訳Ⅲ-⑧)
アア百合よ、二千年の昔ユダヤの野に咲き出でて人の子の眼に触れ限りなき真理を伝ふる の便りとなりし百合よ、来る可き新しき国の園生に咲く 百合よ、願くは爾がもてる清香の半ばを 頒ちて吾に与へよ。 (『蘆花全集第3 巻』: 6 4 )( 現代語訳Ⅲ-⑨)
自然の偉大さから偉大な人物たちに思いをはせている。崇高美の發見と言える。蘆花自身 歷史上の偉大な人物を尊敬していた。また作品の舞台が主に水辺であることも特徴と言える。
幼年期に水辺で育った蘆花の精神は水に親しみを感じるように刻印されたと思われる。これは
27)トーマス・カーライル(ThomasCarlyle,1795~1881)とラルフ・エマソン(RalphWaldoEmerson、
1803~1882)のこと。カーライルはイギリスの評論家・歴史家で、ロンドンのチェルシーに住んでいた。エマソ ンはアメリカの思想家・詩人でマサチューセッツ州コンコードに住んでいた。エマソンが西欧を訪問した際カーラ イルに出会い、親交を深めた。
バシュラールの「物質的想像力」28)と結び付けられる。
以上のように自然の観察は偉人の發見と通じている。また、蘆花の観察眼は漁師や村人に も向けられている。自然を敬う心を持ち、自然と共生する人間の素朴な姿にも関心を見せてい る。
今起きて来た村人が、白い息を吹き吹き川に下りて、河水を掬んで嗽ぎ、顔を洗ひ、それ から遥かに筑波の方へ向いて、掌を合して拝むで居る。ああ実に好い拝殿、と自分は思っ た。 ( 『蘆花全集第3 巻』: 4 4 ~4 5 )( 現代語訳Ⅲ-⑩)
筆者は偉人を登場させる文章よりも、村人の素朴な生活を描写する作品の方が、よりリアリ テイーを感じることができる。人々が洗面する様子や拝殿している姿が、細密畵を見るが如く 描かれており、文章も簡潔で受け入れやすい。身近な人生に関する作品の方が近代性を 持っている。
蘆花の自然觀の特徴は汎神論的物活論として、擬人化が多い。これはエマソンの自然観 やカーライルの英雄観の投影に見える。また、自然と永遠との対比はワーズワースの詩的世 界に通じる。人間の生は一瞬の夢のように過ぎ去るものである。暖かい春の日に自然の中で
「慈母の懐に抱かれて」いるように感じる時も一種の「悲哀」を感じる蘆花である。「自然 はそれを愛する者の心を裏切ることは決してない」というワーズワースの言葉のように、自然は 蘆花の絶対的な味方なのである。
最後の「田家の煙」では自然描写だけではなく、村落まで市井の濁り、つまり賭博、淫 風、奢侈、遊惰、争利が全家庭に侵入していることを嘆いている。また、これを教化するた めに自分に能力があれば「良医」、「良教師」、「良牧師」の三つを村毎に送りたいと 書いている。単なる社会告発や憂国の情を乗り越えた蘆花の平民への愛情と憐れみの情が 読み取れる。このような観点は「写生帖」、そして『黒潮』などの社会小説につながっていく 前段階であると見られる。
蘆花は1899年の元日から大晦日まで、一日も欠かさず自然の様子を書き続けた。これは
28)ガストン・バシュラール(及川馥訳)(2008)『水と夢:物質的想像力試論』法政大学出版局。「故郷とは広が りであるよりもひとつの物質である。(中略)創作している詩人のふける夢想はじつに深く、きわめて自然なため に、思ってもいないうちに、自分の子供時代の肉体のイマージュを再発見しているときがある。根をとても深く張っ ている詩篇はしばしば独特の力を含んでいる。」(同書:12~13)という主張に相応すると見られる。
「徳冨氏は自然の日記をかいたらおもしろかろう」という国木田独歩の言葉に刺激されて始め られた。この時から、毛筆ではなく、ペンで文章を書くようになった。
「自然に対する五分時」と「湘南雑筆」も全文自然文学のデッサンからなっているが、
前者より後者の方が一般的に評価は高い。中野(1984b:44)は、「後者がもっぱら自然その ものに迫って、なんの主観も感情もまじえず、あたかも鋭敏なカメラ・レンズのように、時々 刻々、そしてまた季節による変化をそのまま端的に直写しているのにひきかえ、前者の多くが、
文語体美文調ということもあろうが、どうかすると汎神論的、物活論的自然観になりたがること である。したがって、当然直喩が多い、隠喩が多い。擬人化がある。常套で煩しい」と述 べている。
全般的には、湘南の四季の美しさをスケッチした作品が多く、漁師など、庶民の生活を織り 混ぜたものもかなり見られる。中には3行だけの短い作品もあるが、「鯵釣り」と「海と合戦」
のように蘆花が体験した臨場感あふれる物語もある。
自然はただ美しいだけのものではない。人生も同様である。時には荒々しく、暴風雨が人 間を襲い、その中で人間は翻弄される。同じように「戦闘」も自然と人生のある一面である。
自然を相手に必死に戦いながら言葉では表現しにくい興奮と、戦い終えた後の満足感が読み 取れる作品となっている。
吉田(1977:4)も指摘しているように、蘆花の初期における自然スケッチについては、能文と はいえるが、美文調で、描写は類型的であり、新味に乏しい。そのような蘆花の自然スケッ チを『自然と人生』にみられるような斬新な自然写生文とならしめた成因は、当然写生修業 だけではない。ワーズワースの詩集、『あひびき』(1888)29)、『武蔵野』(1901)30)の影 響、さらには儒教的な家族背景とキリスト教的素養、さらには1894年に刊行された『日本風 景論』31)に勝る「美なる日本」を描くことへの熱意、コローやラスキンの写生論の感化、エ マソン、カーライルの思想など、多方面にわたっているということが、多くの研究者らに指摘さ れている。
蘆花は写生旅行を通じて、自然と人間そのものが芸術であり、その深奥な世界を実感し
29)ツルゲーネフ(二葉亭四迷訳)(1888年)『あひびき』岩波文庫。
30)国木田独歩(1901)『武蔵野』民友社。 1898年発表時の題名は『今の武蔵野』。『源叔父』『忘れ得 ぬ人々』など、18編を収めた文集『武蔵野』に収録したとき改題された。
31)明治時代中期にベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』(1894)は、日本人に新しい風景観をもたら したと言われる。ナショナリズムの立場から日本の風景が変化に富み、優れていることを説いたものである。
た。このように写生文を書くテクニックと影響を受けた思想、文学、哲学、歴史などを織り混ぜ て、大ベストセラー『自然と人生』を誕生させた。この後『不如帰』、『思出の記』、
『みみずのたわごと』など卓越した自然描写文を生み出すに至る。
散文詩に見られる自然スケッチの特徴は昼より朝夕の自然を對象にしている。色彩と光陰の 変化を鋭敏にとらえた作品が多い。それは刻々と変化する自然が映像のように表現されてい る。明け行く空に東雲がたなびく様子や、夕闇せまる漁村の風景などがその代表である。微 妙な雲や風の動きも含めて動画のように文章として再現される。コローの風景画にそのまま通じ る特徴である。
(3) 小品:「写生帖」
これは11篇からなる人生のスケッチである。自然の描写と人生の喜怒哀楽を織り混ぜた作 品である。人生の哀音の中に「無数の苦」、「無数の血」、「無数の涙」を感じる蘆花 の実際に見たり聞いたりした話が綴られている。<可憐児>、<海運橋>では悲哀にみちた 人生が描かれている。それを目の当たりにしながらも自分の無力さに嘆き悲しみ、憤りを感じる 蘆花の苦悩が読み取れる。子供のない蘆花夫妻が、か弱い子供や婦人を思いやる心の表 現は読む者にしみじみとした愛
かな
しさを感じさせる。
社会告発とも言える<国家と個人>では日清戦争の勝利に浮かれている姿に警鐘を鳴ら す。一人の乞食が佇む姿を見て、餓え程悲しく恐ろしいものはないという。愛国忠君も良いが
「願くば陛下の赤子をして餓へしむる勿れ。」と訴えながら、国家の大義名分の陰で弱い個 人が犠牲になることを許さない平民主義者蘆花の姿がうかがえる。
<桜>は西南戦争時の思い出である。美しい桜の花を見て、戦いで命を落した男のことを 思い出すという内容である。これについては第Ⅳ章第3節「「灰燼」について」で引用しな がら考察する。<兄弟>は兄弟が争う姿を見て書いたものであるが、ここに蘆花兄弟の姿を 見たと思われる。「余は悚然として震ひぬ」と言いながら、車中の皆が蘆花の前に座っている 男を見たとある。蘆花は自分が見られているような心情であったほど、他人事ではなく、自分 自身のことのように感じていることがわかる。
<断崖>と<雨後の月>は蘆花自身の体験ではないが、人間の妬みや背信の罪とそこか らの救いというテーマが見られる。<断崖>では妬みによって一瞬友の死を願った自分の罪と
<断崖>と<雨後の月>は蘆花自身の体験ではないが、人間の妬みや背信の罪とそこか らの救いというテーマが見られる。<断崖>では妬みによって一瞬友の死を願った自分の罪と