特に李範允が武力によって間島を実効的に支配しようとすることが、逆に豆満江両岸 に住む朝鮮人に悪影響を及ぼすことになっていった。
清兵が豆満江南岸から朝鮮人が間島に入れないようにしたり、朝鮮人を侵奪するの は、李範允が率いる私砲隊が間島にいるからであるとし、豆満江の往来を杜絶した。豆 満江南岸沿いに住む朝鮮人たちの多くは、「朝耕夕帰」という、朝、渡江して間島で耕 作し、夕方になると家がある朝鮮に帰るという様式の農業を営んでいたため、生活に打 撃を受けることになった。このため、鍾城郡民は、鍾城にある北墾島管理事務所に押し かけるという事態にいたった52)。さらに、間島で耕作している朝鮮人が耕作できないよ うに、清国が追い払うという事件が起こるようになった53)。
辺界警務署が廃止された大きな要因の1つとして考えられるのは、統監府が日露戦争の 復讐戦に備えて間島を橋頭堡にしようとし57)、1906年12月12日には、統監の伊藤博文が 間島に憲兵隊を駐留させることを具体化させていたことにあると思われる58)。この当時 の案はそのまま実行されなかったが、1907年8月の間島統監府派出所設置のきっかけとな り準備がなされていったのである。
光武9(1905)年2月10日に、警務使陸軍参将の申泰休から外部大臣の李夏栄に送られ た照会によると、咸鏡北道辺界警務署の権任1名と巡検1名を日本軍司令部が拘束すると いうことが起こっている。光武8(1904)年の辺界警務署の経費59)を回収するようにとい う度支部の訓令があり、それを証明する署長の公文を持って、 未納であった、永興郡2 万7000両、文川郡4000両、高原郡2000余両を回収に行った。辺界警務署からこれらの地
57) 森山茂徳『近代日韓関係史研究―朝鮮植民地化と国際問題』東京大学出版会、1987年、229ペー ジ。
58) 統監の伊藤から、外務大臣の林董宛に次の文書を送った。
間島ノ清韓孰レニ属スルヤハ久シク両国間ノ懸案問題トシテ未タ解決ヲ見ルニ至ラス候処……
[中略]……帝国政府ニ於テ之ヲ不問ニ付スヘキ義ニ非ラスト存候間、至急我カ官憲ヲ同地ニ派 駐シ、之ニ韓国官吏ヲ付属セシメ韓人保護ノ実ヲ挙クル様致度。就テハ貴大臣ヨリ本件ヲ閣議ニ 御提出相成決定ノ上ハ清国政府ヘ交渉セラレ、速ニ実行ニ着手候様致度。茲ニ韓国政府ヨリ送付 セル間島問題参考書類一括及ヒ、本官手許ニ於テ起案セル間島督務編制、間島憲兵隊編制表、間
島 督 務 庁 文 官 俸 給 歳 計 表、間 島 憲 兵 隊 歳 計 予 算 相 添 此 段 得 貴 意 候 也。 (句読点は引用者)
(1906年12月12日統監伊藤博文発外務大臣林董宛、金正柱編『朝鮮統治史料』第1巻、宗高書房、 1970年、508ページ)。
名 目 額 数 1人月俸 1年計
警務官 2人 58元 1,400元
総 巡 4人 20元 960元
巡 検 200人 6元 14,400元
庁 使 3人 3元 108元
押 牢 3人 3元 108元
庁 費 2,000元
旅 費 2,000元
修理費 400元
夏服費 600元
冬服費 660元
付属諸費 3,076元
罪囚費 2,086元
新建費 2,000元
計 27,998元
59) 辺界警務署の経費は、当初次のようであった。 勅令第9号 咸鏡北道辺界警務署俸給及経費に関する件
第1条 咸鏡北道辺界警務署の俸給と経費は左の如く定める。
第2条 本令は頒布日から施行する。 光武5年3月8日
御押 御璽 奉
勅 議政府議政署賛政内部大臣 李乾夏
(『官報』第1831号、光武5年3月10日)
域まで派遣されていた2名を元山港に駐留中であった日本憲兵が、拘束し、その行動を推 問した。2名は、署長から渡された公文を示し、また、その時、文川、高原の両郡から既 に回収していた6700余両も持っていにもかかわらず、40日余り拘囚したのであった60)。 日露戦争のさなかであったが、日本にとっては、辺界警務署が咸鏡南道まで来ていたと はいえ、信用しがたい、煙たい存在であったのではないかと思われる61)。日本が間島に 派出所を設置する際には、間島と間島に住む朝鮮人に関する事項について、独占的に管 轄しようとしたのである。
Ⅴ. おわりに
辺界警務署は、光武5(1901)年6月から活動を開始し、清国官憲と摩擦や衝突を繰り 返しながらも、間島に住む朝鮮人からは保護機関であると認識され始めた。光武7(190 3)年に入ると、間島居住朝鮮人同士あるいは、間島に住む朝鮮人と豆満江南岸に住む朝 鮮人との間に生じた民事的な事件の訴えを受け付けており、間島における司法機関とし ての役割を果たしていた。その際、間島に巡検を派遣し、事件の当事者を捉えて辺界警 務署へ拘引、留置していたが、それは、日記を見る限り、朝鮮人に限られており、清国 人を連行するということはなかったし、朝鮮に入ってきて捉えた馬賊については、辺界 警務署で一方的に処罰せず清国側に押送している事例も見られた。また、清国でも、間 島における地方行政機関が設置され始め、間島で清国人が朝鮮人を殺害するという事件 の場合にも、清国官憲は、辺界警務署と現場検証を行い、いっしょに審査をしていた。 したがって、辺界警務署は間島に住む朝鮮人問題について、清国側との交渉窓口という 位置にあった。
この時期の鍾城では、激しい武力衝突などはなく、また、間島の帰属が両国政府間で 決定がなされない状態では、どちらか一方の国が、他方を完全に排除して朝鮮人の処遇 を決め、実行するのはほとんど不可能であるため、抑制した原則が成り立っていたとい うのは、豆満江流域の現地官憲の現実的な選択であったといえる。
しかし、光武8(1904)年になると、日露戦争の影響を受け、特に李範允がロシアに加 担して私砲隊を強化したため、清国の兵士と衝突するようになった。このことで間島だ けでなく、豆満江南岸の朝鮮人まで被害をこうむるようになったのである。つまり、間 島居住朝鮮人の法的地位は、実は、韓清間だけでは決めがたいものであったといえる。
60) 「照会第5号」光武9年2月10日付警務使陸軍参将申泰休発外部大臣李夏栄宛(圭章閣所蔵『光武9 年 警務庁来去案』9)。
61) 今回扱った「旧辺界警務署鍾城分署ノ日記中間島関係事件抜粋」によれば、辺界警務署も清国と 交渉する場合に、ロシア官憲、ロシア軍の力を得ている事例がある(表2-1、表3の49と52)。し たがって、北墾島管理使の李範允は日露戦争で、ロシア軍に加担していたこともあり、辺界警務署 もロシア側に近い存在だったとうかがえる。
その後、光武11(1907)年2月に辺界警務署は廃止されたが、今後は、辺界警務署と北 墾島管理使との関係を調べて間島居住朝鮮人にどのような影響があったかを明らかにし たい。また、日記には掲載されていない時期の辺界警務署の役割を外の史料をさらに探 して、この時期の韓国政府の間島に関する政策を明らかにすることとしたい。
(한글요약)
19 세기말‐20 세기초중한관계
-대한제국에 의한 간도 거주 조선인의 보호 정책-‐
고바야시 레이코
(오오사카경재법과대)
1860년대에 생긴 자연재해와 심각해진 정치적 사회적 불안의 탓으로, 주로 함경도에 살고 있던 조선인들이 대거 두만강 및 압록강을 넘어 이주하게 되었다. 당시 그 지역 에서는 봉금정책(封禁政策)이 취해지고 있어 강을 넘는 것은 심하게 금지되고 있었지 만 청나라는 조선인이 유입해 오는 정황을 인식하게 되어, 1881년에 길림성(吉林省) 남부를 개방했다.
그 후 청나라와 조선의 사이에서는 간도(間島: 현재의 길림성 연변조선족자치주의 8 할 정도의 지역)에 거주하는 조선인의 귀속 문제와 간도에 있어서의 국경 확정 문제 가 부상하여 교섭이 진행되었지만 명확하게 결정할 수 없는 상태가 계속 되었다.
1900년 열강에 의한 의화단(義和団) 진압 전쟁 시에 러시아는 만주를 점령하였고 간도에서는 훈춘(琿春)을 7월 30일에 장악했다. 이 결과 두만강 대안 함경도에서는 간 도로부터 오는 마적의 습격이나 강탈 행위의 피해를 빈번히 입고 두만강 연안 지대의 치안은 극도로 악화되어 갔다. 이 때문에 대한제국 정부는 간도에 사는 조선인으로부 터 보호 요청을 자주 받았기 때문에 변계경무서(辺界警務署), 북간도시찰사(北墾島視 察使, 후에 北墾島管理使)를 두게 되었다.
1904년 2월에 러일 전쟁이 발발하면서, 북간도관리사였던 이범윤(李範允)이 간도로 세력을 더욱 더 확대한 결과 두만강 주변 주민에게 피해가 많이 발생하게 되었기 때 문에 청나라가 이범윤을 철수시킬 것을 한국 정부에 신청하여 동년 5월에 이범윤은 간도로부터 철수하고 북간도관리사의 직무도 폐지되었다.
1905년 9월에 일본과 러시아 사이로 포츠머스 조약이 조인되었다. 게다가 동년 11월 에 일본이 을사보호조약을 한국에 조인시켜 한국의 외교권은 일본 외무성의 관리하에 들어가게 되었다. 그 후 간도 문제는 한국을 대신하여 일본이 청나라와 교섭하게 되었 다. 1907년 2월에는 한국 정부가 설치한 변계경무서 폐지가 결정되었다. 1907년 8월에