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時を超えて「からつ」へ
大河内
お お こ う ちはるみ
加唐島へ
2011年6月4日、私たちは連絡船「加唐か か ら丸まる」から、唐津市鎮西町の沖合4キロの加唐島か か ら し まの桟橋へ降り立っ た。すでに広場にはたくさんの人が集まり、「武ぶ寧ねい王おう生誕せいたん祭さい」の催される記念碑のほうへぞろぞろ登っていく のが見えた。急がなくちゃと息を切らして坂道を上ると、韓国公州こんじゅ市からの訪問団代表が挨拶をしていると ころだった。式典がすむと、人々は広場へ戻っていく。広場の周囲にぐるりと20ほどのテントが並んでい て、どのテントにもバー ベキュー の炉が用意してある。受付でチケットを渡して、一人分ずつナイロン袋に 入った食材をもらった。イカ、アジ、サザエ、タイ、小さなアワビまで、新鮮な海の幸がたっぷり入ってい る。すでに炭火はカンカンに熾おきていて、箸、紙皿、コップがふんだんに準備してあるし、野菜は大皿に盛 られてあちこちに置いてあるので、好きなだけもらってくる。おにぎりもあるし、飲み物もある。これだけ 食べて、往復の船賃も入れて3000円は安いねと、食べながら話している人が多い。武寧王なんて知らな いけど、海鮮バー ベキュー が人気だし、韓国の踊りもあるし、子どもたちにはゲー ムもあるので楽しそうだ から遊びに来た、という家族連れも大勢いるようだ。年々人気が高まっているらしい。
夫と私はほどほどに食べ終えて、さっきの坂道をもう一度登る。記念碑を通りこして峠まで上り、次に下 れば、道路の左脇から細い道がオビヤ浦へ降りていく。去年来た時より道が整備されて歩きやすくなってい た。椿の多い島で、密生した椿の濃い緑の葉が初夏の日差しにまぶしい。花の盛りならどんなにきれいだろ う。
下り切ったら海だ。オビヤは小さな入り江で、ゴロゴロと丸い石の磯。砂地は少ない。そこに洞窟がある。
いや、あったというほうが正確か。武寧王がここで生まれた時はおそらく洞窟だったであろうが、崩落して 天井がなくなって、ちょっとした窪みになっている。しめ縄が張ってあって、ここが生誕地だとの小さな解 説板が朽ちかけていた。
昨年、ここに、韓国の高名な哲学者、キム・ ヨンオク(号トオル)先生を案内した時、先生は洞窟に向か ってひざまずいて額を地面につけて拝礼をなさったものだ。それから先生は、磯に打ちよせている韓国文字 の入ったゴミの数々を感慨深げに眺めてこうおっしゃった。「ゴミがここに流れてきているのを見れば、海流 が韓国からこちらに流れていることがわかる。船の上で産気づいた産婦を緊急に上陸させて出産させるため に、船はこの小さな入り江に入ったのだろう。『日本書紀』の記述には信憑性がある。もっとちゃんとしらべ なきゃいかんな・ ・ ・ ・ ・ 」
この島には千数百年もの間、武寧王誕生の伝承があって、大正4年に出た『東松浦郡史』にも『日本書記』が引 用されている。ただ、永い間、韓国側にそれを認めない風潮があったようだ。百済の偉大な武むにょん寧王わんが、倭の
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小さな島の洞窟の中で生まれたということを信じがたい気分が働いたものだろう。それが、1971年に公 州市で武寧王陵が発見され、石に刻んだ文字から『日本書記』の記述の正当性が認識され、その後研究が進ん だことにより、12年前から唐津と公州市の武寧王関係の交流が始まったのだ。
『日本書記』によると、5世紀の半ば、この島で出産した女性は、当時の百済王の側室の一人であって、しか も産み月近い身重であったものを、王の弟が倭国へ友好のため(その実、いわば政治的人質として)派遣さ れるときに、王より賜ったひとである。もし、男児を産んだら子は百済に送り返すようにとの命令を受けて いた。産み落とした子は男児であった。母と子は引き裂かれ、子は百済へ送り返された。長じて、第二十五 代・ 武むにょん寧王わんとなり、善政をしいて百済中興の祖とうたわれたという。
母なる人のその後の消息や名前さえも、『日本書記』は語っていない。新しい夫と二人、大和や ま との都・ 平城な らに 赴き、子を恋う気持ちを押し殺してひそやかに暮したものであろうか。「オルマナ、クリウォハショッスル カ・ ・ ・ ・ 」(どんなに、恋しがられたことだろうか・ ・ ・ ) 私は海にむかってつぶやいた。波はひたひた と寄せてくる。ひとりの女性の運命も波とともに寄せてきて、そして歴史のかなたに消えて行った。
子の船は彼方か な たに去りて海鳴りの“アイゴーあ あ 、 、アガヤ我 が 子 よ”とむせぶがごとし
今上天皇は平成13年12月23日の御誕生日のご挨拶の中で百済の武寧王に言及され、日本の皇室に百済の血 が流れていることをお認めになるという、踏み込んだ発言をなさっている。韓国との親和を深く望んでおら れることの証だと思う。陛下は、ここ唐津市の加唐島で、武寧王の祭りを毎年行っていることをご存じであ ろうか。韓国の人々は、日本人が武寧王を大切に祀っていることをどう思うのだろうか。
鏡山
へ
わが宿にお泊りのお客様を観光にご案内するとき、よく 鏡山に上るが、ここは 万葉集に出てくる
「領布振山ひ れ ふ り や ま
」であり、伝説の松浦ま つ ら佐用さ よ姫ひめが、537年、夫の大伴狭手彦お おとも のさでひ こ
の百済への援軍として新羅出征の折、海 路の安全を祈ってヒレを振ったところだ。ヒレには呪術的な力があり厄災を払うと古代韓国では信じられて いたことをトオル先生が教えてくださった。そういえば日本にも、『古事記』などに類した神話が残っている。
日韓は根を同じくする国だとつくづく思う。
山頂に立てば、目の下に唐津湾が広がる。美しい風景である。外海に出ると三角波の立つ玄界灘。ここか ら壱岐、対馬と、飛び石伝いに韓半島へ渡れるので、太古よりこの地は半島との往来の玄関であった。時に は友好的、時には激しく敵対した。
最も古くは、おそらくこのあたりへ丸木船やイカダ程度で古代人が流れ込んできて、人種や、稲作や、鉄 器がもたらされ、ひいては、千字文や仏教も渡来する。日本からの遣唐使や遣隋使も出港した。唐津が「カラ への津=港」と呼ばれる所以である。
30年以上も前に我が家へお越しになった司馬遼太郎先生は、唐津を「唐とう、すなわち、中国のことではない。
字より音が先だ。これは、狭義には韓からであり、伽羅(伽耶)だ。密接な関係があった。そして、そこを通っ て、広義のカラ、すなわち外国のカラテンジク、また西域までもつながったのだよ」と教えてくださった。今 そのお言葉は『街道を行く』シリー ズの「肥前の諸街道―虹の松原」の部分に現れる。また、同じ章に、「元寇」
についての考察がある。
1274年、当時モンゴルの属国であった高麗国が皇帝フビライに倭への侵略を進言して多数の軍船を建造し、
先鋒となって対馬、壱岐、博多湾を蹂躙した(文永の役)。1281年、二度目の侵攻(弘安の役)の際には、
主力軍が唐津市肥前町の沖合1キロの鷹島に上陸し島民を殺戮して前線基地としたが、結局台風によって壊
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滅。元は日本をあきらめた。その後、この二つの役でもっとも激しく戦い甚大な被害をこうむった松浦党水 軍は、元寇への報復心を募らせ、かつ、異国への関心が覚醒されたか、しだいに「倭寇」へと変身して行き、
韓半島沿岸を荒らしまわって高麗を弱体化へ追い込み、続く朝鮮王朝にとっても脅威となった。この時代に この海を渡って、通商または略奪によって多くの文物がもたらされ、仏像や鐘など、あちこちに韓国関係の ものが唐津に残る。ここも平戸とともに、松浦党の一大拠点であったからだ。
次に16世紀末には、豊臣秀吉がフビライの轍を踏んだ。太閤は老年になってから「唐入か ら いり」を夢想し大明だいみん国こく を攻めようとしたのだ。正気の沙汰とは思えない。だが、反対できる大名がいなかった。この西の果ての小 さな城山に集結して割普請による急造の名護屋城を築き、20万の大軍が海を押し渡った。「文禄・ 慶長の 役」といわれ、韓国側で「イムジンウェラン・ チョンユウェラン」と呼ぶ、日韓の歴史上もっとも悲惨な戦いで ある。(1592年―1598年)“ハノベンニョン(恨五百年)”の傷跡を残した壮絶な、当時としては、世界最大 の戦争であった。
のちに焼物戦争とも呼ばれるようになるこの戦いは、日本に陶磁器の文化をもたらしたと言われている。
私は唐津焼の茶碗を手にして茶を服するとき、ふと哀しみが胸をよぎる。連行されてきた朝鮮人陶工によっ て飛躍的に発展した唐津焼は、理不尽なタヒャンサリ(他郷暮らし)を強いられた彼らが涙で土を練ったも のではないだろうか。悲しい器である。それだけに、魂に沁みるように美しい。
うぶすなの韓からは見えねど秋澄みて慈母観音は海に向き立つ (唐津フジ作)
名護屋城跡へ
2013年9月24日、私たちのグルー プは唐津市鎮西町にある名護屋城跡の佐賀県立名護屋城博物館を訪 ねた。再々訪れる場所であるが、今回は特別展示がある。『黄金、そして茶の湯 秀吉の宇宙』というテー マの開館20周年企画だ。
秀吉はここ名護屋の陣に来て、臣下の人心収
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のために、能や茶道を利用した。お茶は政治であった。黄 金の茶室を作らせ、大名達を招いて、驚嘆させ、敬服させた。海を渡った兵士たちが慣れない酷寒の中を死 に物狂いで行軍している間、茶会や歌舞音曲で遊び暮らした。進軍が明国へ到達するには朝鮮国を北上縦断しなければならない。到る所で戦いは熾烈を極め、半島は阿 鼻叫喚の巷と化した。名護屋城博物館は、これらの反省の上に立って、新しい日韓関係を模索するために作 られた博物館である。私達はまず知らなければならない。目をそむけてはならない。次いで、考えなければ ならない。そこから始めなければ、相互理解や許しは生まれない。
燦然と輝く黄金の茶室を見ながら、敷かれた緋色の畳や同じく緋色に貼られた障子が私には血の色に見え て、胸を衝かれた。オルマナ、オルマナ ・ ・ ・ とつぶやき、あとは絶句する。ことばが見つからな い・ ・ ・ ・ あまりにも歴史が重い・ ・ ・ ・ ・ 。
天守台の跡に立つと、鏡山から見たときよりももっと韓国は近く感じられる。壱岐が目の前に見えるし、
空の澄んだ日には対馬の山頂が水平線から頭をのぞかせるからだ。対馬からは釜山の灯が見えると聞いた。
日韓の歴史において玄界灘は常に重要な舞台となってきた。幾多の哀しみ、苦しみがこの海を渡った。韓半 島へは高速船で3時間の距離である。近い。そして、遠い。この海に濃い霧がたちこめる時、私もまた一人 の佐用姫となってヒレを振る力があるのだろうか。
かいきょう海 峡
に風かぜ哭なき涛なみの叫さけぶ日は術すべなく佇たちてカスミノムアッパ胸 が 痛 い
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けれども、私達両国は、悔やんでばかりはいられない。過去を脱却して未来に向かわなければならない。
最近、私の宿にも、韓国からたくさんのお客様がお出でになる。明るい表情でたくましく行動する若い人た ちを見ると、希望が見えてくるように思う。許し合う日もかならず来るだろう。なぜなら、私達は、同じ根 から生えた二つの幹であるからだ。 私自身、韓国生まれの日本人であり、終戦直後、父の故郷唐津へ引き 揚げてきた。 韓国への思いは深い。
私は、今住む唐津から、時を超えて、一衣帯水の玄界灘周辺がみな繁く往来していた「伽羅津」へ行きたい と夢見る。「仲良くしたい」、この願いが、私にこの紀行文を書かせた。
감사합니다.
終
(写真は別メールに添付します。)
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