• 검색 결과가 없습니다.

第5章 踏襲される核と天皇制─『ピンチランナー調書』─

1976年8月から10月の『新潮』に掲載された『ピンチランナー調書』は、同年10月に単 行本として刊行された。1973年9月に刊行された『洪水はわが魂に及び』からおよそ3年後の 長編作品となる。作家である「僕」(=光・父)は、頭蓋骨欠損である息子の光が通う特殊学 級で、同じ障害をもつ森とその父親である森・父と知り合う。ある日、かつて原子力発電所の 技師であった森・父から自分の幻の書き手ゴースト・ライターとなることを指名された光・父は、彼の指示通り森と 森・父の「転換」の物語を書き記していく。森と森‧父がトリックスターであり、「僕」が彼ら に起きた出来事を記していくかたちで物語は展開していく。『ピンチランナー調書』において もっとも奇怪ともいえる装置は、ある日突然38歳であった森・父が18歳に、8歳であった森が28 歳の青年へと入れ替わる「転換」である。

『ピンチランナー調書』は森と森・父の「転換」を軸とした物語の時間と、それを語る森・父 とそれを書き記す幻の書き手ゴースト・ライターの光・父のやり取りの場面との二重構造となっている。そのため、

文章の読みにくさを指摘する書評も見受けられるが、作中の主要なモチーフは障害をもつ息子 と父、核問題、天皇制など大江作品においては馴染みのものである。しかし、多くの書評で 指摘され、その評価が分かれるのは、森と森・父の「転換」である。この荒唐無稽ともいえる 非現実的な展開には、さまざまな批評が行われてきた。『ピンチランナー調書』における未来 観、宇宙観を評価し、形而上学的な領域に踏み込むことで人類の救済が可能になるのでは ないかとする上田三四二の書評123)や、宗教小説としての要素をもちながら作者の時代への 批判と愛情が共感を喚起するという加賀乙彦の論124)がある。これらのような肯定的な評価が ある一方で否定的な論考もあり、月村敏行の場合、「転換」という非現実的な事件を用 い、頭蓋骨欠損児になりかわってやりたいという父親の思いをネタにした「妄想譚」と辛辣に評

123)::上田三四二(1977)「小説の時空::大江健三郎『ピンチランナー調書』」『群像』32(1)、講談社、p.311参考。上 田は本稿にて作品の根底に宇宙の意志、超越者の声、前意識的なものの呼びかけが語られているとし、形而上学的な領 域に踏み込むことで人類の救済が可能になるのではないかと解いている。

124)::加賀乙彦(1976)「道化としてのキリスト::大江健三郎『ピンチランナー調書』」『朝日ジャーナル』18(52)、朝日新聞 社、p.63参考。加賀は本稿にて『ピンチランナー調書』を「ユングを下敷にした宗教小説」と位置づけ、森を権力者に 対決する道化としてのキリストとして作品分析している。当時の原子力発電所、原水爆弾、巨大産業、戦争、内ゲバなど のアクチュアルな状況を描きながらも、道化の提示によって小説を破壊しつつも想像的世界を現したと評価している。

している。125)

前述した通り、『ピンチランナー調書』で扱われている障害児と父子関係、核問題、天 皇制についてのモチーフは、大江が繰り返し語ってきたものであり、その中でも核問題と障害 児については、『ピンチランナー調書』の3年前に刊行された『洪水はわが魂に及び』でも 扱われてきたものである。本章では「転換」という非現実的な装置をどのように解釈することが できるのか、再考を試みるとともに、1976年にあらためて描かれた核問題が『洪水はわが魂に 及び』のそれと同質のものであるのか、1970年代という時代背景と比較しながら考察を行って いく。

1. 核開発と未熟な核認識

『ピンチランナー調書』において大きな比重を占めているモチーフは、核に関する内容であ り、核を取り巻くさまざまな登場人物たちの動きが描かれている。かつて原子力発電所の技師 であった森‧父は、核強奪事件に遭い被曝する。被曝事故の被害者として休職中にあり発電 所からの金で生活している森・父は、その被曝経験を買われ「大物A氏」(=「親方パトロン」)に核 兵器や原子力開発の情報収集や研究をまとめて資料を提出するアルバイトをしていた。「大 物A氏」は内ゲバを繰り返す革命党派と反革命党派の双方に資金援助を行い、小型原子 爆弾をつくらせていた。彼らの開発した核爆弾により日本を混乱に陥れ、それを自ら治めること で日本の支配体制を掌握しようとする野望をもつ人物であることが作中で明らかにされる。

「転換」後、28歳と18歳になった森と森・父、女優の麻生野オウノ 櫻麻サクラオ、内ゲバの解消につとめ る「志願仲裁人」、革命党派に所属する女子学生の作用子サ ヨ コ

、「ヤマメ軍団」の二人ら は、野心的な「大物A氏」の人間支配のための計画を阻止しようと奔走し、最後には森が

125)::月村敏行(1976)「発言─大江健三郎における事実と妄想::大江健三郎『ピンチランナー調書』」『すばる』(26)、

集英社、pp.295-299参考。本稿にて月村は作品には障害児への大江自身の父親としての思いが封じ込められており「転 換」は息子になりかわってやりたいという思いが宿ったものだと捉えている。大江が自身の「アンテナ」にかかったものを妄想 譚として描いたとして批判しつつも、「妄想のような現代、化物のような現代」を描いた点について作者を全否定することはで きないと述べている。

「大物A氏」を殺害し、自身も火に飛び込む結末だ。

物語の概略にのみ目を向けると、「大物A氏」の核による人間支配を阻む彼らの行動 は、正義に立つものとして受け止められ、森の死も核問題の末端部分における犠牲者、ある いは英雄として捉えられるであろう。しかし、森・父や麻生野らの言動や態度には、核に対す る絶対的な否定や拒否は見られない。このことは、反原発集会での麻生野らの活動家たち が掲げた《核の力を非権力の手に!》というスローガンに象徴的にあらわれているだろう。麻生 野は反対党派のリーダーとの対話でも、核を権力者から民衆の手に取り返すのが目的である こと、「大物A氏」の手に核が渡ってはならないことを強調しながらも革命派が核を造ることに ついては許容する発言を行っている。126)また、「メール‧ショービニズム」「ファシスト」「プ チ‧ブル的」などの社会思想用語を駆使し、周囲の人間に冷静に論理的な指摘をする作用 子も、中国の核実験における放射能被曝の危険性に関する森・父からの問いには楽観的な 反応を見せている。

(前略)おれはその核実験記録フィルムを詳細に分析したがね、実験参加者の放射能被曝 の危険については、配慮を払っていると思えなかったね。

──(中略)フィルムと一緒に医学的なデータも参看したの?外国ジャーナリズム用に公開され たフィルムを漠然と眺めただけで、ネヴァダでのアメリカ研究者の実験風景と比較したのじゃな いでしょうね?中国人は自力更生で、見た眼の比較など問題じゃない所まで、乗り越えてる よ。放射能症の中国人の症例を見るか聞くかしたとでもいうの?

──あの國には報道管制があるのでね、作用子さんよ。

──(中略)しかし、報道管制があることと、核実験による被曝者が中国にいるかどうかという ことは別だわ。報道管制はあるが、核被曝はなかった、ともいえるのじゃない?推測だけを、同 じく根拠に置けば。127)

医学的なデータや放射能症を発した中国人の症例を明確に把握していない森・父に対し、

作用子は被曝がなかった可能性を主張する。革命思想をもつ作用子は、ほかの登場人物ら

126) 大江健三郎(1996)「ピンチランナー調書」『大江健三郎小説4』新潮社、p.478「麻 アラユル核ノ力ヲ民衆ノ手ニ取 カエス。ソノ運動ニ私ガ参加シテイル以上、革命党派ガ原爆ヲ造ルコトニ反対シナイ。シカシ、モシ情報トシテ流レテイルト オリ、ソノ原爆製造ノ資金ガ、「大物A氏」カラ提供サレテオリ、ソノ見カエリトシテ原爆製造ノ過程ガ報告サレテイルトシタ ラ、心配ダ。最後ノイヨイヨノ時ニ、原爆グルミ革命党派ガ「大物A氏」ニ利用サレルノデハナイカ?」

127)::大江健三郎(1996)「ピンチランナー調書」『大江健三郎小説4』新潮社、pp.421-422。以下、本章における「ピン チランナー調書」『大江健三郎小説4』新潮社からの引用は頁数のみ記載する。

と同様に「国家権力が核兵器を開発するより先に正しい路線の革命党派が核武装すべき」

(p.422)だと、権力者以外の核兵器保持を肯定する。自らの抱く思想に盲目的な作用子 は、核の科学的な脅威についての思考を停止してしまっているといえるだろう。このような作中で の森・父と作用子のやり取りが大江自身の経験をもとに描かれていることは、1967年の『世 界』に発表されたエッセイにて知ることができる。

中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、ぼくをおそった暗い恐怖感のことを

中国の核実験を写したフィルムを深夜のテレヴィに見た時、ぼくをおそった暗い恐怖感のことを