訪問について
-日本外務省資料からみた日本金融制度の調査を中心に-
奚 伶 (中国 復旦大学)
Ⅰ. はじめに
Ⅱ. 載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの 訪問団の日本における動向
Ⅲ. 訪問団の日本金融制度に 関する調査
Ⅳ. おわりに
Ⅰ. はじめに
1903年1月22日に, 清国駐米代理公使沈桐はアメリカ国務長官ジョン ㆍヘイ(John M. Hay)に対して幣制問題に関する覚書を提出し, 幣制改 革への協力を要請した. アメリカ側は, 1904年1月に顧問としてジェン クス博士が中国へ派遣されるという対応を取れた. ジェクスは事前に作 成された「中国の新幣制システムに関する建議」(Suggestions for a Monetary System for China)を清朝政府に呈示し, 三ヶ月の実地調査 を経て, 最終的に「中国の新幣制システムに関する考察」(Considerations on A New Monetary System for China)を作成し,再び清朝政府に呈 示したのである. 結果的には, ジェンクスの提案は採用されなかった. そ れにもかかわらず, この件をきっかけに, アメリカは近代中国の幣制問 題とのつながりができ, やがて1930年代国民政府の幣制改革において重 大な役割を果たしたというのが定説である.1)
このことから, 幣制問題, さらに金融制度の改正は, 当該期の清国に とって喫緊な課題として反映されている. そのためか, 1903年の同じ時 期には, 「新政」を始め日本を模範にしようとする清国政府は, 実地調査 のために載振ㆍ那桐をはじめとする訪問団を日本へ派遣したと同時に, 金本位制等の金融制度を主要な調査対象に考えを入れていた. この日本 訪問の経緯については, 当事者であった那桐による日記(那桐著, 北京市 档案館編那桐日記上巻, 新華出版社, 2006年, 459-467頁)から詳しく 見られ, 全体像把握のできる貴重な一次資料だといえる. しかし, この訪 問団に関する従来の研究では, 主に大阪で開催中の第五回内国勧業博覧 会への見学, 及びそれに関連する諸問題に重点が置かれてきた.2) 管見の 限り, 訪問団の清国幣制問題や金融制度の改正に関わる動向についての 分析は全く見当たらない.
そこで本稿においては, これまで触られてこなかった外務省外交史料 館の史料群である「清国外務部侍郎那桐本邦金貨本位制度銀行法等実施ノ 情況取調一件」3)(以下は「那桐取調一件」を略す)を中心にとりあげ, 前述 の那桐日記を参照しながら, 1903年に訪日した載振ㆍ那桐らの訪問団
1) ジェンクスに関する主な先行研究は以下のとおりである. 丘凡真, 「精琪的幣制 改革法案与晩清幣制問題」 (近代史研究 2005-3), pp.124-150. Lai, Cheng-Chung, Gau, Joshua Jr-shiang, “Professor Jeremiah Jenks of Cornell University and the 1903 Chinese Monetary Reform”
(Hitotsubashi Journal of Economics, 50-1, 2009), pp.35-46. 城山智子, 「 近代中国幣制改革論の系譜: ジェレミアㆍWㆍジェンクス(1856-1929)を中心と して」 (斯波義信 編, モリソンパンフレットの世界, 東洋文庫, 2012), pp.87-107.
2) 例えば, 許峰源, 「清季那桐赴日考察与新政的开展」 (成大歴史学報 32, 台湾成 功大学歴史系, 2007.6), pp.139-158. なお, 日本語による先行研究は, 江口久雄 の「財政処の設立とそのスタッフについて」 (史学雑誌 87-4, 1978.4)が列挙で きる. その中では, 新政を推進するために, 財務処が政務処とともに設置され, そ こにかかわる人物が紹介されている. その中で, 那桐ㆍ張允言が言及され, 特に 1903年の日本訪問については, 日本の金融制度に関する考察を目的として挙げら れている. しかし, 具体的な分析までは至らない.
3) 国立公文書館アジア歴史資料センターRef. B11090630200. ここからの引用文 は注をつけないこととする.
が幣制問題に関して日本に求めていたことと, それに対する日本側, と りわけ大蔵省の対応などの事実関係を明らかにしていきたい. さらに, 目賀田家文書からの関連資料4)を加え, これまでの研究がまったく言及 していない清国海関副税務司を務めるイギリス人ブレドン(Robert Bredon, 中国語名「裴式楷」)の位置づけについて考察した上で, 1903年 のこの訪問を「載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの日本訪問」と名づける理由まで 検討してみたい.
Ⅱ. 載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの訪問 団 の日本における動向
本節においては, 上述された三種類の資料をもとに, 中国語資料(那桐 日記)と日本語資料(「那桐取調一件」及び目賀田家文書)を分け, 時系列 で「表: 載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの訪問団の日本における動向」を作成し てみた. 以下はこの表に沿いながら, 訪問団の動向を概観してみよう.
まず, 日本訪問団の派遣目的は二通りにある. 1月には, 大阪内国博覧 会の列席であったが, 2月19日には, 那桐の要請によって日本の金本位制 ㆍ銀行法ㆍ印紙税法等の調査という新たな目的が加わっていた. さらに
4) 本稿で主に利用される目賀田家文書(国立公文書館所蔵)の資料は以下の二点で ある. 第9号の「清国海関副総税務司ブレンドン氏来朝に関し日清貿易打開に関す る件」アジア歴史資料センターRef. A09050056200. 第13号の「支那幣制問題に 関す る清 国副総 税務 司 ブ レ ド ン 氏 の 意 見」ア ジ ア歴史 資 料 セ ン ターR e f . A09050078700. 以上の資料からの引用文は注をつけないこととする.
目賀田家文書は目賀田種太郎の個人文書を中心になっている. 目賀田種太郎 (1853-1926), 明治ㆍ大正期の政治家ㆍ官僚ㆍ法学者, 旧静岡藩出身. 1870年に アメリカへ派遣され, 1874年にハーバード法律学校を卒業すると同時に帰国, 翌 年留学生監督として再び渡米, 1879年に帰国した. その後, 法律界や財界におい て活躍, 東京代言人組合会長を務め, 大蔵省に勤務した期間は主に財政制度の整 理を行った. 1904年に韓国の財政顧問として招聘され, 3年後には統監府の財政 監査長官となり, 韓国の幣制改革を含む財政整理に深く関与した. 1920年に国際 連盟の第一回総会に林権助, 石井菊次郎とともに日本代表として出席した. なお, 専修大学, 東京音楽学校の創立に貢献したことも特筆される.
追加したメンバーである瑞豊(戸部員外郎)と張允言(戸部郎中)の二名が実 際にそれらの調査任務に当たることもわかってきた. 二日後, 21日にこ の情報が日本駐清国大使館から日本外務省までに届き, 在清国公使内田 康哉は, 清国の要望に対して, 「右三件ニ関スル書類報告等ノ蒐集方並ニ 当局者ヲシテ本邦金貨本位制度及其実施前後ノ情形銀行法印紙税法実施 並ニ其結果等ニ関スル綱領要目ヲ摘録シタルモノヲ準備シ置那桐一行來 着上其質問ニ応シ説明ヲ無之與ヘラレ様至急其筋へ御協議相成候様致度 候」(内田康哉から小村寿太郎宛の電報により)という要請を外務大臣小村 寿太郎を通じて本国政府に行った. 3月6日, 小村は内田が伝達ㆍ要請し てきた内容をそのまま大蔵大臣曾禰荒助に伝えた. そして, 十日余り後 (16日)の曾禰から小村宛の電報によれば, 「那桐一行ニ贈与スヘキ書類」5) が大蔵省によって迅速に作成され, 主にこれまで金本位制採用の日本経 験や他国への意見書類を中心になったものである. ほかにも, 清国を対 象にした書類の「清国金貨本位制採用方法」が30日に大蔵省から外務省ま で届き, 日本金本位制移行の推進者であった大蔵省総務長官の阪谷芳郎6)
5) 詳細は以下のようになる. 「幣制, 銀行, 印紙税ニ関スル調査参考書」については,
「明治三十年幣制改革始末概要(邦文, 英文)」, 「準備金始末」, 「比律賓諸島ノ幣制 調査ニ際シ米國陸軍省当局者ヨリ本官ノ意見ヲ求メラレタルトキノ往復書類摘要
」, 「本邦駐箚メキシコ国公使ノ依頼ニヨリ送付シタル金貨本位制参考書類ノ一部
」, 「金貨本位制制定ノ際大蔵大臣松方伯カ議會ニ於テ為シタル演説筆記(邦文, 英 文)」, 「銀行便覧」, 「租税法規(英文)」がある. 「一般財政経済調査参考」としては,
「金融事項参考書」, 「財政経済年報(英佛)」, 「財政問答書」, 「国債沿革略」, 「国勢 一班」が用意されている.
6) 阪谷芳郎(1863-1941), 明治ㆍ大正時代の大蔵官僚ㆍ政治家, 旧岡山藩出身, 近 代日本実業界の巨人渋沢栄一(1840-1931)の娘婿. 1884年に東大政治学理財学 科を卒業した後, 直ちに大蔵省に入省し, 会計法の制定, 金貨本位の実施に深く 関与し, 日露戦争期の外債募集の貢献によって男爵を授けられた. その後, 大蔵 大臣(1906-1908), 東京市長(1912-1915)を歴任した. そのほか, 国内外で様々 な社会活動に関わって活躍した. なお, 漢学者の阪谷朗廬の第四子として生まれ, 漢学の家柄で, 早くから中国に対して関心を持ちはじめ, その後も生涯にわたっ て中国問題に深い関心を示した. とりわけ中国の財政金融の問題に日本を代表す る経済官僚として深く関与した. その点に関する詳細については, 拙稿「阪谷芳郎 の近代中国経済政策建言に関する研究」(修士論文)を参照.
が深く関わっている. こうして, 清国訪問団が出発する前に, 日本側は訪 問団受け入れ体制が出来上がったということが窺える.
4月に清国訪問団は訪日の旅につき, その動向が那桐日記から見られ る. 同書によれば, 訪問団一行の日本における活動期間は, 4月27日に下 関に到着してから, 5月23日に東京から帰国の途に着くまでの間であっ た. 神戸, 大阪, 名古屋, 東京等の主要な都市を回り, 大阪で開催されて いた内国勧業博覧会はもちろん, 大阪造幣局, 軍事工場, 車工場, 商業学 校, 女学校, 日本銀行, 三井銀行, 蚕業工場等の様々な場所を見学したと いう. さらに, 日本の政界ㆍ財界のトップクラスの要人との会合を持っ た. 特に財政ㆍ金融事情について, 主税局長目賀田種太郎, 大臣曾禰荒 助, 総務長官阪谷芳郎, 元大臣の松方正義等々の訪問目的に関わる大蔵 省出身官僚たちと集中的に意見を交換した事実をこの日記から確認する ことができる.
その中で注目すべきなは, 5月15日及びその後の展開である. 5月15日 に, 那桐はブレドン, 瑞豊ㆍ張允言及び通訳二名とともに大蔵省を訪問 し, 阪谷, 目賀田等の大蔵官僚たちと, 約二時間にわたって財政事情に関 する会談を行い, 戸部官僚である瑞豊ㆍ張允言に翌日から精力的に大蔵 官僚たちとの討論を行うように命じた. 那桐日記において著者本人の 関わる動向しか記述されないため, 翌日に瑞豊ㆍ張允言の言動はこれま で詳しく知られていないが, 日本語資料の「那桐取調一件」を通して初め て見えてくるようになった. すなわち, 16日に張允言ㆍ瑞豊から16条の 質問が日本側に提出され, 18日に大蔵省による答案が作成されたことの である.
さらに興味深いのは, 訪問団のメンバーであるブレドンからも清国の 幣制を始めとする金融制度の改正に関する覚書が, 16日に大蔵省の阪谷 ㆍ目賀田宛に提出され, それに対して詳細な返答も作成されたことであ る. 那桐日記に沿えば, ブレドンは4月30日に姿が現れ, しばしば財政 金融に関わる話題を論じた場(即ち表の下線部分)で出席していた. その一 方で, 目賀田家文書によると, ブレドンは実際に訪問団よりも早く, 4
日付 那桐日記 那桐取調一件 ㆍ目賀田家文書(※の
<表> 載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの訪問団の日本における動向
月8日に神戸に到着して活動を始め, 20日にかけて訪問団と合流する前 に関西に滞在しており, 関西経済界における対清国貿易に携わる主なる 業者との会合を行ったという. なぜなら, 「在清我代表者ノ勧メニ出デ財 政中殊ニ関税貨幣ノ事及日清外国貿易ノミナラズ尚主要ナル将来ヲトシ 得ヘキナル」(目賀田から阪谷宛の手紙により)ことがブレドンに求められ たからである. のちの10月20日にブレドンから目賀田宛の手紙からわ かったように, ブレドンの来日目的は清国の「現制度ヲシテ新条約及其新 主義ニ適合セシハル様改良ス」るための調査であった. ここの「新条約」と いえば, 1902年に締結された英清通商改正条約(即ちマッケイ条約)を指 し, つまりブレドンは清朝政府の貨幣制度の改正や統一を行うべき7)と いう状況で日本を訪問したとのわけである.
一方で, 瑞豊ㆍ張允言及びブレドンからの質疑に対する回答は, 5月25 日に関係資料とともに那桐宛に送付された. それ以外, 「那桐取調一件」
においては, 19日の日付に作成された「清国金本位採用に付及中央銀行設 立に付意見書」や, 26日に清国へ送られた阪谷による「清国貨幣政策」及び
「清国金貨本位制採用方法」が添付され, 読む限りいずれも丹念込めたも のだといえよう.
本稿では, 清国の金融制度の改正をめぐる訪問団の動向及びそれに対 する日本側の対応という相互的関係に重点を置きたいため, 上述した清 国側である張允言ㆍ瑞豊による16条の質問, ブレドンからの「坂谷目賀田 両君に呈スル覚書」, 及びその後日本側の作成された答案を取り上げなが ら, 考察を進めていきたい.
7) 1902年にイギリスとの「續議通商行船條約」(即ち英清通商航海条約, 別名マッケ イ条約)の第2条で明言されている(王鉄崖 編, 中外舊約章彙編(第二冊)生活ㆍ 読書ㆍ新知三聯書店, 1959, p.102). そのはかは, 1903年にアメリカとの「通商 行船續訂條約」の第13条(同出典, p.187)及び日本との「通商行船續訂條約」(即ち日 清(両国間)追加通商航海条約)の第6条(同出典, p.193)も, 規定されている.
部分) 1903年1
月9日 日本外務省から大阪内国博覧会に関する 照会が届き, 載振ㆍ那桐ㆍ瑞良ㆍ陳名侃 ㆍ毓隆5人の参会を決定
2月8日 日本訪問団決定の知らせが日本駐清国大
使館に届く 2月19日 ①参会の随員として, 上述5人の上奏に
よって楊来昭ㆍ陶大均ㆍ誠璋ㆍ章士荃ㆍ 全森ㆍ祝瀛元ㆍ程大澂ㆍ陶彬8人を追加
②日本の銀行や金鎊や印花税を調査する ために, 戸部官員の張允言ㆍ瑞豊と翻訳 官祝書元の随行を那桐がさらに要請
2月21日 日本訪問の目的: 大阪で開催される内国
勧業博覧会の見学と, 日本の金貨本位制 ㆍ銀行法ㆍ印紙税法等についての調査
【内田康哉から小村寿太郎宛】
3月6日 小村が内田の電報を曽禰荒助まで回す
3月16日 大蔵省による 那桐一行ニ贈与スヘキ書
類 が作成され
3月30日 清国金貨本位制採用方法 の阪谷芳郎に
よるコメント【大蔵省理財局国庫課長神 野勝之助から外務省取調課田邊熊三郎】
4月8日 ※ブレドンが神戸に到着【櫻井鉄太郎よ
り目賀田宛(日付4月13日)】
4月13日 ※ブレドンが大阪に到着【目賀田より阪
谷宛の手紙(日付4月27日)】
4月20日 北京から出発 4月27日 下関, 広島を経過 4月28日 神戸を経過 4月29日 大阪に到着
4月30日 ①ブレドンと食事, 目賀田種太郎が同席, 関税事情を訊ねる
②博覧会副総裁の農商大臣平田東助を訪 問, 大鳥圭介が同席
③大阪府知事高崎親章を訪問
5月1日 ①大阪造幣局を見学, 局長長谷川為治が 同行
②博覧会を見学
③大阪市長鶴原定吉と食事, 平田ㆍ高崎 ㆍ第四師団長小川又次が同席
5月2日 ①軍事工場見学, 局長楠瀬幸彦が同行
②小川と食事, 軍事訓練を見学
③博覧会を見学 5月3日 ①汽車製造工場を見学
②住友園を見学 5月4日 ①博覧会を見学
②松方正義を訪問, 張允言ㆍ瑞豊ㆍブレ ドン等同席, 銀行等の金融事情を訊ねる 5月5日 ①博覧会見学
②正金銀行を訪問 5月6日 ①博覧会見学
②平田東助と食事 5月7日 ①堺の水族館見学
②博覧会見学
③大阪から離れ 5月8日 名古屋に到着 5月9日 名古屋見物 5月10ㆍ
11日 箱根見物
5月12日 東京に到着, 博覧会総裁の閑院宮親王が 来訪
5月13日 各大臣を訪問 5月14日 ①曽禰荒助を訪問
②載振とともに, 日本銀行, 三井銀行等 を訪問
5月15日 ①ブレドンとともに, 阪谷ㆍ目賀田に財 政事情を訊ね, 関係書類をもらう
②明日より, 張允言ㆍ瑞豊が続けるよう 命じる
5月16日 ①女子高等師範学校を訪問
②貴族院議会に列席
①張允言ㆍ瑞豊が16条の質問を提出
②ブレドンが 坂谷目賀田両君に呈スル 覚書 を提出
5月17日 ①松方を訪問, ブレドン同席
②帝国教育会を訪問, 載振が講演
③外務大臣小村寿太郎を訪問 5月18日 ①高等商業学校を訪問
②西川宮威仁親王を訪問 ①張允言ㆍ瑞豊の質問に対する答案
②ブレドンに対する答案 5月19日 ①華族女学校を訪問, 下田歌子と会見
②同文会の関係者, 近衛篤麿ㆍ長岡護美 ㆍ神鞭知常ㆍ榎本武陽等と食事
草稿 清国金本位採用に付及中央銀行設 立に付意見書 ( 清国金本位採用ニツキ , 清国中央銀行設立ニツキ要項 , 清国 中央銀行兌換券条例制定の件 を含む) 5月20日 ①農事試験場及び蚕業工場を訪問
②載振とともに, 大隈重信を訪問
③銀行クラブに出席, 渋沢栄一が講演 5月21日 ①訪問団一行が明治天皇に謁見
②青木周蔵を訪問, 西徳二郎が同席 5月22日 ①天皇から賞品を与えられ
②下田歌子が来訪 5月23日 帰国
5月24日 名古屋を経過, 京都に到着
5月25日 京都見物 訪問団の質問に対する答案及び関係資 料8)【曽禰から小村宛】
5月26日 ①博覧会の京都会場を見学
②井上馨が来訪 阪谷による 清国貨幣政策 及び 清国金 貨本位制採用方法 【小村から内田宛】
5月27日 大阪を経過, 神戸に到着 5月28日 下関へ
5月29日 ①下関に到着, 上船
②ブレドンが上海へ 6月1日 大沽に到着 6月2日 北京に到着 1 0 月 2 0
日 ※ブレドンがハートへの報告書を提出
【ブレドンより目賀田宛】
Ⅲ. 訪問団の日本金融制度に関する調査
1. 瑞豊ㆍ張允言からの質疑及び大蔵省の回答
前述のように, 戸部官員である瑞豊ㆍ張允言は, 日本の金本位制ㆍ銀 行法ㆍ印紙税法等を調査するために, 訪問団のメンバーとして加えられ た. そこで, 5月15日に那桐の命を受けた二人は, 翌日に本位貨幣, 中央 銀行, 兌換券, その他(公債募集ㆍ貨幣行政ㆍ衡制の制定)を中心に, 合せ て16条に及ぶ質問を大蔵省の官僚たちに提出している. それらが「那桐取 調一件」に残され, ここで日本語訳のみを以下のように掲載する.
8) 書類は「那桐取調一件」に残されて全部中国語に訳されており, 「大日本帝国貨幣 法創定暁諭」, 「清国関金本位制度之新設要項」(「関中央銀行之創設所定要項」ㆍ「中 央銀行兌換金票條例中所定要項」ㆍ「中央銀行兌換金票條例中所定要項」を含む), 「 擬清国貨幣法案」, 「対張瑞両位之示書答案」, 「対普列東君答案記録」, 「関清国金 本位之採用与中央銀行之設立意見」, 「日本現行貨幣制度及沿革大要」, 「日本銀行 制度及沿革大要」として, 合せて八種類に整理されている.
一 中国従来銀貨国タリ現下若シ驟カニ改メテ金貨制度トナストキハ通国 財政上必大変動アルヘシ国家及商民ノ利害如何
二 中国若シ改メテ金券ヲ用井ントスルトキハ予メ先ツ多額ノ金ヲ貯蔵シ 以テ兌換ニ備ヘサルベカラズ惟国家従来金ノ貯藏ナシ宜シク何等ノ方法 ニ依リ之ヲ収積シ以テ多数ヲ得ヘキヤ
三 中国若シ改メテ金券ヲ用ウルトキハ金貨外国ニ流出スヘシ何等方法ヲ 設ケ之ヲ抵制スヘキヤ
四 中国現ニ定メテ庫金一両相当ノ銀元ヲ鋳造シ以テ通用貨幣トナス其利 害如何又何等方法ニ依リ之レヲシテ流通セシムヘキ乎且若シ同時金幣ヲ 添鋳シ相当価格ヲ一定シ改メテ金銀複本位制トナスコトハ障碍アルベキ ヤ否ヤ
五 中国銀本位ノ法久ク行フベキヤ否ヤ銀本位ヲ行フニ付テハ補助金ノ法 如何又一文ノ制銭ハ応サニ廃止スヘキヤ否ヤ
六 中国現在収入ハ多ク庫平ニ係ル而シテ支出ハ庫平湘平京平等ノ類アリ 京平ハ庫平ニ比シ小ナリトス若シ改メテ一般通用ノ貨幣ヲ定メ収支一律 ニ帰スルトキハ則支出上国家ハ鉅額ノ損失ヲ定クベシ応ニ如何シテ変通 ノ法ヲナスベキヤ
七 中央銀行資本ハ若干万円ヲ要スヘキヤ
八 日本銀行資本政府持株五百万円人民持株五百万円ナリト云フ当時募集 計計画ノ方法如何
九 中央銀行ト私立銀行ト関係如何
十 中央銀行ニ於テ既ニ紙幣ヲ発行スル上ハ全国統一ヲ以テ是トナスヘキ 惟商立銀行ニ対シ若シ驟カニ其発行票紙ヲ禁スルトキハ事情障碍ヲ免カ レサルベシ日本従前私立銀行発行紙幣アリ如何ノ方法ニ依リ之ヲ処分シ 統一ニ帰スルコトヲ得タルヤ且如何ニシテ商人ニ於テ碍ケナキヲ□タル ヤ
十一 準備金額ト紙幣総額トノ割合如何
十二 紙幣は紙片ヲ以テ実金ニ代ワルモノナレバ偽造者ノ利益最大ナリ厳 ニ査禁ヲ行フト虽トモ恐クハ全ク偽造者ナキコトヲ□ザルベシ其方法惟 精細緻密ノ製造ヲ以テ模造シ難ヤラシムルヽアルベシ但中国地方広大人 民紙幣ノ記号ニ於テ周知スル能ハズ恐クハ疑念ヲ生シ通行ヲ碍スルクル コトアルベシ日本紙幣発行ノ当初何等ノ良策ヲ用テ人民ヲシテ信用セシ メシヤ
十三 紙幣一枚ノ最大金額ハ若干ニ過クル能ハズ最少金額若干ニ過クへカ ラス聞ク日本銀行一円紙幣停止ノ説アリト其理由如何
十四 中国若シ中央銀行ヲ設立スルトキ公債ノ法行ヘキヤ否ヤ日本大蔵省 証券ノ法如何
十五 貨幣行政ノ専務官如何
十六 衡制改定ノ標準応サニ如何スヘキヤ
以上の質問に対して, 大蔵省側は逐条にわたって丁寧に回答したのみ ならず, さらに18日付を以て「對張瑞両位之示書答案」という書類にまと め, 後に清国側に送付した. ここで, 上述した四つの方向に従い, 大蔵省 側からの回答について述べておきたい.
まず本位貨幣については第一条から第六条までの質問が提出され, そ れらに対する回答は全体の半分を占めており, その重要性が窺えるため, 重点を置いて考察する.
第一条に対して, 銀価格下落のままで銀本位制を維持し続ける不利点 というよりも, 「国家経済上価格ノ標準変動」, 特に「度量衡ノ変動」がも たらす悪影響が強調されている. すなわち, 具体的には「国家ノ歳計是ニ 由テ齟齬シ人民ノ商務是ニ由テ紊乱シ国際貿易是ニ由テ渋滞衰退ス」との 三点であった. 故に, 「価格ノ標準」を一定にすることが最も肝心なこと であると指摘されている. そして, このことが達成できれば, 政府がこれ まで抱え込んできた金貨外債が増え続けることはなく, 国家財政の安定 化が実現し, このことによって個人の商業活動の展開に便宜を与え, さ らには対外為替相場の安定によって国際貿易の円滑化が見込めると述べ ている. 要するに, 当該期において, 金本位制実施が国民経済に対して有 する積極的な意義は「国家経済上価格ノ標準」を安定させるということで あると考えられていたのである.
第二条は金本位制実施のための金準備に関する質問である. 具体的に は, 中央銀行の金券発行を通じて漸進的に金の吸収を行うべきと主張さ れ, 主に以下の四つの方法が推奨されている. そこでは「兌換券発行ニ関 スル経済上ノ原理」に依拠しているが, 「中央銀行ノ営業上ノ収益資本ニ 利用シ得ヘシ」という点が以下の如く特別に強調されている.
一 中央銀行ハ債券ヲ発行シ之ヲ以テ金ヲ買収スルコト此債券ハ他日金券 ヲ以テ償還シ得ヘシ
二 中央銀行ハ其払込資本ノ全部若ハ一部ヲ以テ金ヲ買収スルコト 三 金券ヲ以テ直ニ金ヲ買収スルコト
金券ノ流通拡張シ信用高マルニ隨ヒ此方法益々容易ニ行ハルへシ 四 政府ハ補助鋳造ヨリ生スル益金ヲ以テ金ヲ買収シ其金ハ之ヲ中央銀行
ニ売渡スコト
補助貨製造益金ハ貨幣額面高ノ少クトモ三割ヲ利益シ得ヘシ清国ニ流 通セシムヘキ補助貨ノ総高三億両ト仮定セハ補助貨鋳造益ハ九千万両ニ 上ルヘシ
第三条は金本位制採用後の金貨の海外流出についての質問である. そ れに対して, 「銀貨ヲ用ユルモ借多ケレハ銀貨外国ニ流出ス金貨ヲ用ユル モ貸多ケレハ金貨内国ニ流入ス」との回答であり, つまり「国際賃貸ノ関 係」における金券の発行は正貨の出入と関係なく, 異なった次元の問題で あると指摘されている. 清朝政府が輸出貿易の奨励や出稼ぎによる利益 の回収等に努める, すなわち「外国ニ対シ可成努メテ貸ノ地位ニ立ツコト ヲ図」ることが出来れば, 金貨の流入が実現できると予測されているので ある.
第四条の金銀複本位制の可能性に対しては否定的な回答が示され, 改 めて金単本位制の導入が薦められている. 何故なら, 「金銀比価ノ変動ニ 伴ヒ安キ方ノ貨幣ヲ高価ニ買ヒ高キ方ノ貨幣ヲ安ク売ルノ結果ヲ生シ国 家ノ為メ不利」だからである. とは言え, 初期段階においては, 庫平両に 相当する銀貨(但し発行制限あり)が本位金貨を基にして鋳造され流通さ せるという「一時ノ便法」を必要とすると指摘されている.
第五条の補助貨の鋳造については, 「銀及銅共ニ用ユヘシ」と明言され, 詳細な方法についての具体例としては別冊「日本貨幣法の規則」が参考と して挙げられている. 第六条に対して, 一時的に「鉅額ノ損失ヲ受ケル」
ことは避けられないが, 財政上の「収支一律」は「国家ノ信用ヲ高ムルノ基
」であると強調されており, ここでは税法改正が一つの手段として提示さ れている.
次に, 中央銀行の創設に関連して, 第七条から第九条まで, それぞれ銀 行の資本規模, 資本募集の方法, 普通銀行との関係について, 金融経済制 度確立にあたっての基本中の基本とも言うべき質問が出されている. こ
れに対して, 資本金は最少額の一千万円で, その五分の一又は四分の一 の金額を以て中央銀行の開業が許可されるというのが第七条への答えで あった. 第八条の資本募集の仕方については, 日本銀行の組織編成を事 例として挙げ, 最初の段階で一千万円の総資本が民間から集まり, その 後は次第に政府主導へと移行し, 最終的には総額は三千万円に到達した と答えている. 第九条の普通銀行との関係については中央銀行の職能が 強調されている. 例えば, 中央銀行は「銀行ノ銀行トシテ金融ノ中枢」に 位置づけられ, 「国家公共機関」としての「国庫金」取り扱いが主要な職務 であると強調されている.
続いて兌換券発行とその製造について, 第十条から第十三条までの質 問について回答している. その要点として兌換券の発行権は中央銀行が 独占すべきだと指摘されている. 如何に普通銀行から発行権を回収する のかという, 当時の清国が直面していた近代的な金融経済制度確立にあ たっての困難を極めた課題に対して, 日本の経験, すなわち明治十六年 の国立銀行条例の改正が事例として挙げられ, さらに別冊「紙幣整理始末
」が参考資料として用意されて回答に充てられた. 第十一条の準備金と兌 換券の関係に関しては基本的には兌換券の八割を正貨準備として発行す ることが可能であるが, 一方では将来の流通の拡大を考慮に入れれば, 五割まで低下させても何ら問題がないということであった. 第十二条に 対しては, 兌換券の偽造を防ぐために, 個人が模倣できない程の「精細緻 密ナル文明的技術」の整備がキーㆍポイントだと指摘されている. それか ら, 発行する際には新貨幣の特徴を公布して人民に周知徹底させ, さら に偽造者に対する懲罰の条規を明確に制定すれば, 「人民ノ疑念ノ如キ顧 慮アルコトナシ」と答えている. 第十三条の小額兌換券に関しては, 「一 国平常ノ取引上ノ必要額トシテ必ス国内ニ留存ス」るという性格を持ち,
「国家ノ正貨ノ基礎ヲ確実ナラシムル」ため, 将来的には「経済ノ進歩シタ ル文明諸国ハ皆小額紙幣廃止ノ方針ヲ採ル」というように説明されてい る.
最後は公債募集(第十四条), 貨幣行政のシステム(第十五条), 衡制の改
正(第十六条)についての質問である. 公債募集の方法については, 「官民 共同」の実行が提案され, 政府が税法の改革によって国庫の収入を確実に するために公債を発行し, 同時に民間資金も大々的に募集して, 一千万 両, さらには五千万両規模の多額に達することができると述べられてい る. 大蔵省が取った具体的な方法とは, 「政府ノ一会計年度中ニ於テ予定 ノ歳入ノ収入アルニ先タチ歳出ヲ要スル場合ニ於テ一時国庫ヨリ発行ス ル手形ニ過キス其同一会計年度ノ歳入ヲ収入スルニ隨ヒ直チニ返還スル 短期流動公債ノ一種ナリ普通ノ公債ノ方ト同シカラス」と言うことであっ た. 貨幣行政については, 「圜政局」を設置し, 「行政部」(法規の制定ㆍ庶 務ㆍ会計等)と「技術部」(貨幣の鋳造ㆍ紋様の設計ㆍ地金の輸納等)という 二大部門に分け, 「総辨」が事務の一切を統括するという行政システムが 推奨されている. 衡制の改正に関しては, 従来から一部で慣用されてい る度量衡を基本に, それを全国的基準として統一するとともに, 秤や尺 度の製造や販売に当たっては, 政府の許可を必要とするとの法改正が必 須だとしている.
2. ブレドンからの質疑及び大蔵省の回答
さて, ブレドンも, 清国海関副総務司として, 大蔵省の阪谷芳郎ㆍ目賀 田種太郎宛に, 清国金融制度の整理, 特に幣制問題に関する覚書(「坂谷目 賀田両君ニ呈スル覚書」)を, 5月16日付を以て提出した. この覚書は, 上 述した瑞豊ㆍ張允言による日本への質問に対する「疑問ノ補欠」として位 置づけられ, 日本において財政改革に関する豊富な実務経験を有する「坂 谷目賀田両君」に対して「清国ノ位置ヲ了解シ又清国ノ為メニ利益ナル説 及助言」を与えてくれるように要請したものであった.
覚書は, 内容的には「貨幣ニ関シテ」(8条), 及び「金貨幣ハ如何」(5条)の 二つの部分に分けられ, 合せて13条の質問が提起されて, その主要な関 心は, 以下のように, 貨幣の鋳造及び発行, 中央銀行の設置, 本位制度の 三方面にわたっている.
まず第一に, 清朝政府は庫平両を「公ノ出納ニ対シ唯一ノ法貨タラシム ベシ」と強調し, そのために「大ニ肝要ノ問題」として, 「庫平両ノ純銀量 目ヲ保有スルヲ要ス尤貨幣ノ硬度ヲ保ツ為メ例ハ一割ノ混合物ヲ要ス」こ とが提起されている. そうすれば, 庫平両が「不換代表貨ニシテ只法ノ力 ニ依テ国内ノ取引ニ対シテ其名価ヲ以テ使用シ得ル」ようになると述べら れている. こうして, 広く流通している銀票の整理に着手しながら, 中央 銀行による新たな銀行券の発行によって, 次第に新貨幣への引き換えを 行うということである. また, 本位貨幣については, 「半両貨ハ之ヲ本位 貨トスベキヤ又ハ代表貨トスベキヤハ研究ヲ要ス」と主張されているが, それは「其大サト軽便トノ為メニ一両ヨリハ一層気受宜シク又要用ナラシ 之ヲ本位貨トスル方良策ナリト信ス」からである.
第二に, 中央銀行の設置に関して, 「第一資本金高及其関係第二政府監 督ノ範囲及営業ノ範囲第三政府ノ補助第四責任ノ問題ヲ生ス」と述べてい る. まず資本の募集において, 国内資金のみならず外国銀行の助力が望 ましいという点である. そして次に銀行の組織編成のあり方について, 二重標準の採用が推奨されている. すなわち, 国外向けには「幾分カ外国 的組織ヲ採用セサルヘカラス」のに対し, 国内向けには「少ナクモ或程度 迄ハ旧習ノ支那風ニテ行ハナリヘカラス」とのことである.
第三に, 本位制度への関心は, 瑞ㆍ張の質問と重なった部分が多い. 例 えば, 清国で金本位制を実施した場合の利点, 金準備及び正貨の維持 等々である. ただし, ブレドンはさらに, 日本での金本位制採用後にもた らされた具体的な利点についても説明を求めている.
ブレドンの以上の問題関心に対して, 大蔵省側は「ブレント君ニ答フル 覚書按」なる文章をまとめて返答をしている. それは「貨幣制度ニ付キ」
(11条), 「中央銀行ニ付キ」(4条)の二つの部分に分けられているが, この うち前者についての記述が圧倒的に多い. そこで, 瑞ㆍ張の質問に対す る答えと重複する部分は避けて, 阪谷ㆍ目賀田がまとめた回答について 検討しておきたい.
貨幣制度については, まず金本位制, 特に金単本位制の採用が依然と
して推奨されている. 採用がもたらす利点, 金準備の方法, 私立銀行券及 び紋銀の使用禁止等々の諸点は, 瑞ㆍ張への返答で既に言及されている ので省略する. ただ, 以下の二点だけ補足的に述べておきたい.
一つは, 日本での金本位制採用がもたらした利点について, 国家財政 の安定, 商業活動展開の円滑化, 国際為替の発達以外に, 特に物価に対す る影響の大きさが強調されていることである. つまり, 金本位制下の物 価の変動は, 銀貨が下落したとしても「不合理ノ騰貴」がなく, よって「経 済界ノ投機心ヲ挑発スルコト」がなくて「経済ノ秩序的発展ヲ促カ」すとい う大きな利点があるということである.
もう一つは, 本位金貨の一両に関しては「近来ノ銀価ニ基キ算出スルニ 金一両ハ米国金五弗ノ八分一, 日本金貨五円ノ四分ノ一」を基準にすると の提案があったが, それに限らず, 清国の新貨幣は外国貨幣との比価に おいては, 提案のように「整数ノ計算」が出来れば, 「国際貨幣政策上相互 ノ利益」が生まれていくと言う利点であった.
次に中央銀行については, 組織編成について「外国風ヲ可トス」と指摘 し, しかも「株式会社組織トシ其責任ハ会社財産ニ止マルモノ」との性格 付けを行っていることである. 尚, 中央銀行の営業に関する諸事項及び 兌換券の発行については, 別紙「中央銀行条例及兌換券条例ニ定ムヘキ要 項覚書」の中で詳述されている.
日本訪問を終えて清国に帰着したブレドンは, 当地での調査や諮詢事 項をまとめて海関総税務司ハート宛に詳細な報告書を提出した. 具体的 な内容については, 10月20日付の目賀田種太郎宛の手紙の中で添付され ている. なお, このブレドンの報告書では, 上述した大蔵省の回答を踏ま え, さらにメートル法に従った重量単位「グラム」の使用, 統一した国立 造幣局の設立, 外国人(特に日本人)の技師や顧問官の招聘といった諸点が 補足的に付け加えられていたことも明らかとなっている.
Ⅳ. おわりに
このように本稿では, 1903年に訪日した載振ㆍ那桐ㆍブレドンらの清 国訪問団による金融制度の創設に関する質問, 及びそれに対する大蔵省 側の対応について考察を行ってきた.
以上の分析からわかるように, 訪問団が金融制度の調査に力を入れた という一般論はもちろん, 調査内容の具体化までもはっきりされていた.
清国の質問した側は二通りあるのが判明され, 中国における金融制度の 改正について, それぞれの関心をもとに発問している. その一は, 戸部側 (瑞豊ㆍ張允言)が国内の新制度立ち上げに念を入れ, 意識的に日本経験を 求めながら質問の捻出を試み, 主に中央銀行の設置, 兌換券の発行や整 理, 公債の募集という点から明らかに見られる. その二は, 海関側(ブレ ドン)の関心に将来の新制度と清国以外の既存制度とのつながりを強める という側面が見られる. 例えば, 本位貨幣の量目に関して, 戸部側は庫平 両を前提に話しを進めてみようとしているが, 海関側に対し, 質問され た側の回答からみれば, アメリカㆍ日本の量目を考慮しながら規定すべ きだと推薦されている.
では, こうした二通りの関心の原点はどこにあったのか. おそらく, 戸 部側のほうは, 同時期の日本を模範にしようとした「新政」において国づ くりの一端として考えられているではなかろう. 結果の一つとして, 翌 年の1904年には, 訪問団のメンバーであった張允言が戸部銀行(北京)ㆍ 造幣局(天津)の設立準備を主導し, さらに1905年に開業された中央銀行 たる戸部銀行(後, 大清銀行と改称)の初任総監督を担当するようになった のである. この一連の件において, 清朝政府が日本での調査結果(中央銀 行に関して)を活用した可能性は否定できないであろう. ただし, それら の関連性については, 更なる実証が必要である.
その一方, 海関側のほうは, 清国における対外貿易の更なる拡大に狙 い, 当該期の金本位制の下での貿易体制において円滑に展開するための
新たな金融制度を作り出す可能性が見出されたことが窺えよう. よって, 本稿で取り上げた1903年清国の訪問団の言動であろうと, 冒頭に触れた ジェンクス博士による幣制改革の意見であろうと, 実際は中国が近代国 家の建設を模索しながら金本位制のグロバール化という潮流に乗ようと する試みとして見なされてもよい. こうして, 近代中国金融制度の再編 成については世界史の流れに置かれて検討すべきではないかと, この件 に関する分析を通して再度確信された. そこで, 海関側の言動の重要性 にかんがみて, 筆者は1903年のこの訪問に「ブレドン」を加え, 「載振ㆍ那 桐ㆍブレドンらの日本訪問」と名づけることを提案する.
*追伸: 本文は2013年12月に神戸大学人文学研究科へ提出された博士論文「
清国幣制問題への関与からみた近代日本の経済構想: 国際金本位制確立 期を中心に」の一部であり, 2014年7月に京都大学人文科学研究所の「近 現代中国における社会経済制度の再編」研究班で報告されたメインでもあ る.
<主要參考文獻目錄>
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(한글요약)
1903년 재진(載振)ㆍ나동(那桐)ㆍ브레든 등의 일본 방문에 관하여
-일본외무성자료(日本外務省資料)에서 본 일본 금융제도 조사를 중심으로-
시 링 (奚 伶)
이 논문은 1903년에 일본을 방문한 재진(載振)ㆍ나동(那桐)ㆍ브레든 등 청국방문단(清国訪問団)에 의한 금융제도의 창성에 관한 질문 및 그에 대한 일본 대장성(大蔵省) 측의 대응에 관하여 고찰하였다. 이 방 문단이 금융제도의 조사에 주력했다고 하는 일반론은 물론, 조사 내용 의 구체적인 내용까지도 규명하였다.
청은 중국에서 금융제도의 개정에 관한 관심에 근거하여 두가지 질 문을 하였다. 첫째, 호부측(瑞豊ㆍ張允言)은 국내의 새로운 제도 출범 을 염두에 두고 의식적으로 일본의 경험을 질의하였는데, 주도 중앙은 행의 설치, 태환권의 발행이나 정리, 공채의 모집 등에서 분명히 드러 난다. 둘째, 해관측(브레든)의 관심의 관심에는 장차 새로운 제도와 청 의 기타 제도와의 연계를 강화한다는 측면이 있어서, 예컨대, 본위화 폐의 양에 관한 질문을 했고, 이에 대한 대답으로 미국이나 일본의 예 를 고려하면서 규정할 것을 추천하였다.
호부측에서는 일본을 모범으로 삼고 시행하고 있던 「신정」 차원에 서 고려가 이루어졌다. 그래서 이듬해인 1904년에 방문단의 구성원이 었던 장윤언(張允言)이 호부은행(戸部銀行, 北京)ㆍ조폐국(造幣局, 天 津) 설립 준비를 주도하였고, 또 1905년에 설립된 중앙은행인 호부은
행(뒤에 대청은행으로 개칭)의 초대 총감독을 맡게 된 것이다. 이 일련 의 사례를 보면 청 정부가 일본에서의 조사결과를 활용하였을 가능성 을 부정할 수 없을 것이다. 다만 이 사례들의 관련성에 관해서는 추가 검증이 필요하다.
한편, 해관측에서는 청에서 대외무역의 추가 확대를 지향하면서, 당 시 금본위제하의 무역체제에서 원활히 운용될 수 있는 새로운 금융제 도를 만들 가능성을 찾아보고자 하였다. 이에 따라 본고에서 거론한 1903년 방문단의 언동이나, 젠크스 박사에 의한 화폐 개혁 의견이나 모두 실제로는 중국이 근대국가의 건설을 모색하면서 금본위제의 글로 벌화라는 흐름에 편승하려는 시도였다고 볼 수 있다.
이리하여 근대 중국 금융제도의 재편성에 관해서는 세계사의 흐름 에 두고 검토해야 함을 이 분석을 통해 다시금 확인할 수 있다. 따라 서 해관측의 언동의 중요성을 감안하여 필자는 1903년 방문에 브레든 을 추가하여, 「재진ㆍ나동ㆍ브레든의 일본 방문」이라 할 것을 제안한 다.
주제어 : 재진, 나동, 브레든, 청국방문단, 일본 금융제도 조사 關鍵詞 : 載振, 那桐, 裴式楷, 清国訪問団, 日本金融制度調査
Keywords: Zai Zhen, Na Tong, Robert Bredon, Mission of Qing China, Investigation on Japanese Financial System
(원고접수: 2015년 10월 8일, 심사완료 및 심사결과 통보: 2015년 12월 14일, 수정원고 접수: 2월 18일, 게재 확정: 2월 25일)