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第 10 章   東アジアの霊魂観と韓国の儒教死者儀礼

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第10章  東アジアの霊魂観と韓国の儒教死者儀礼

        

1. はじめに

近世儒教の宗主国を標榜してきた韓国では、儒教の死者儀 礼の喪礼および祭礼に関する研究が少なからず行われてき た。ところで、筆者が見るに喪・祭礼の研究には次の三つの 観点で問題点が内包されているようである。

まず、喪・祭礼の意味の研究においてその接近法はほとん ど儒教的テキストの解釈を通した思想研究1)に集中し、文化人 類学的な研究が不備な点である。すでに80年代に韓国人は

「先祖を崇拝する美風良俗を持っているとはいいながらも人 類学的研究はほとんどしていない」2)と崔吉城が指摘したこと が、事情は現在も変っていない。

第二に、喪・祭礼の起源探求において未開社会葬祭との関 係に関する研究が不備な点である。喪・祭礼が儒教思想を土 台に考案された儀礼だとしても、儒教思想の発祥以前の葬制 の伝統と断絶してはおらず、これは孔子の家系自体が葬儀や 祭礼に従事していた儒3)だったという事実から見ても明らかで

1) 最近、発表されたテキスト分析研究の典型的な事例として、ド・ミン ジェは祭礼の意味を「現在の自身の存在に対し考えさせる倫理的機 能」、「人間関での秩序を確立するようにする社会的機能」、「人間関 係の規範と道理を学び教える教育的機能」として結論を結んでいる。도 민재,「유교 제례의 구조와 의미 -기제를 중심으로-」, 동양철학연구 회, 『동양철학연구』제42집, 2005.

2) 崔吉城,「한국 조상숭배 연구의 회고와 전망」, 한국문화人類学회,

『한국문화人類学』제20집, 1988, p.154.

3) 春秋戦国時代に孔子が出現する時まで、「儒」とは葬送儀礼に従事した シャーマンや呪術師を示す。シャーマンとしての儒をある学者は「原 儒」と呼んでいるが、孔子の系統の儒を孔子の言葉にしたがって「君子 儒」という。孔子は巫祝としての儒からその呪術的な部分を除去して

(2)

ある。このような主題は巫俗の死霊祭と喪・祭礼の関係を解 明するのにも不可欠であろうが、現在まで十分に検討されな いまま放置されていたような感がある。もちろん、喪・祭礼 の起源に接近しようという試みがなかったわけではないが、

満足な成果を上げられていないのが実情である。4)

第三に、喪・祭礼に関する文化人類学的な接近は主に「祖 先崇拝」研究の観点から行われてきたが、この概念だけでは 包括的に把握するのに限界があるという点である。祖先崇拝 儀礼は子孫に利益を与える存在としての先祖に対する感謝や 祈願を表わす意味を持っているが、5) このような定義は祭礼 を説明するのに有効かも知れないが、喪礼の説明には無理が ある。6) なぜなら、喪礼には感謝や祈願という概念だけで解

「君子儒」を大成したと考えられる(加地伸行, 『儒敎とは何か』 東京 : 中央公論, 1990, p.79). また『礼記』によれば孔子の母は葬送儀礼 に従事する儒であり、孔子自身が幼い時期、葬儀をまねて遊んだとい う。

4) 最近出てきた事例の中でコン・ビョンソプは喪葬礼俗の起源がいつから 始まるのか明確な時点を特定すのは難しいとしながら、「喪礼は靈魂不 死観念の発生と親孝行思想が結合して成立した」という指摘にとどまっ ている。(공병석, 「先秦喪禮의 기원과 발전」, 동양예학회, 『동양예 학』제10집, 2003, p.144.). またコン・ヨンニプは祭礼の起源を神話 学、考古学的に接近しようと試みたが「天に対する敬畏心や死に対する 恐怖など宗教的な心理と関連した部分」を解明できないとして今後の課 題として保留している。(공영립,「제례의 기원과 본질」, 동양철학연 구회, 『동양철학연구』제23집, 2000, pp.280-281.).

5) 「一般に「崇拝」行為を行う現成員と、これを受ける死亡した成員の関 係は、「子孫」と「祖先」(または「先祖」)の関係として認識され、前 者は自分たちとその集団の存続や繁栄を「先祖」に負うもの考える。こ の事実を認めて感謝や祈願を怠らないことが「先祖」の善意や守護を引 き続き確保し、より幸せな生活を送るため(または不幸に見舞われない ため)に不可欠だと考えるのである。その際、必要となる「子孫」から 先祖へのコミュニケーションは一定の儀礼を通じて行われ、この儀礼を 一般に先祖祭祀と呼ぶ。」(田中真砂子, 「祖先崇拝」, 『[縮刷版]文化 人類学辞典』(東京 : 吉川弘文館, 1994), p.435.).」

6) 例えば崔根德は喪礼を「死者にすべての悲しみ、すべての敬意が集中す るため先祖に対する敬意の表徴を見つけるのは難しい」とし、祖先崇拝 の具体的な関連性に対する言及がない一方、祭礼に対しては「祖先崇拝

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釈できない要素が内包されているためである。

これと共に、従来の研究は喪・祭礼が持っている意味を包 括的に説明するのに十分に成功したといえないようである。

筆者は喪・祭礼の意味探求において、儒教テキスト解釈次元 を止揚し、儒教以前の葬制までを考察の範囲に入れ、文化人 類学的な接近をすべきだと考える。そういう観点から喪祭と 祭禮を一貫して説明できるモデルが考案される必要があると 思われる。

上のような趣旨から本研究は、喪・祭礼の起源を東南アジ アを中心に発達した未開社会の葬祭の複葬に求め、それに内 包されている象徴構造が古代中国の死者儀礼を経て、現代韓 国の喪・祭礼にまで継承されたことを提示することを目的と する。

2. 未開社会の複葬

(1) 古代中国死者儀礼の原形

近年、儒教の宗教性を浮彫りにした学者として知られてい る加地伸行(1936~ )は喪・祭礼の原形が孔子以前の「魂」と

「魄」を結びつける「招魂再生シャーマニズム」であったこ とを指摘した。7) 彼によれと、魂魄観念は周の後期から体系 化され始めたが、その根源は頭蓋骨をつかった未開社会の葬 祭に遡るという。8) 儒の人間観は心身二元論であり、人間は 精神を主宰する「魂」、肉体を支配する「魄」から成る存在 として把握した。魂と魄は生きている時は共存しているが、

死亡すれば両者は分離して、魂は天に魄は地に行くという。

の見地から見れば祭礼はその極致である」と述べている。(崔根德,「조 상숭배와 의례」, 『한국문화人類学』제18집, 한국문화人類学회, 1986, p.179.)

7) 加地伸行, 『沈黙の宗敎 -儒敎』(東京 : 筑摩書房, 1994), pp.28-46.

8) 加地伸行, 前掲書, pp.75-76.

(4)

魂 と 魄 の 漢 字 は こ の よ う な 由 来 を よ く 表 象 し て い る が 、

「魂」の中にある「云」は空に浮いている「雲」を象徴して いるが、「魄」の中の「白」は白骨を象徴する。9)

ところで儒たちは分離した魂と魄を再び結びつけることに よって、この世に再生できると考えた。彼らはその実現のた めに魂を招いて魄を回復する儀礼、すなわち「招魂復魄」儀 礼を行ったのである。10)

「招魂復魄儀礼」には「尸」と呼ばれた人が介在した。尸 は分離した魂と魄を合致させる媒介役割をするシャーマン で、死者の頭蓋骨を頭にかぶった状態で儀礼を実施した。こ の姿を象形した文字がまさに「尸」であり、横から見た姿を 象形した漢字が「鬼」あるいは「畏」である。11) 死者の霊魂 は子孫に憑依すると考えられたので、普通、孫が尸を引き受 けたので「尸童」とも呼ばれた。ところが、子孫の代わりに この役割に従事する専門家ができたが、彼らがまさに「儒」

であった。

では、招魂復魄儀礼とはどのような特徴を持っていたので あろうか。エリアーデ(Eliade,Mircea,  1907~1986)の

『 シ ャ ー マ ニ ズ ム 』12)以 来 、 シ ャ ー マ ニ ズ ム を 脱 魂 型 (ecstasy type)と憑霊型(possession type)に分けることが一 般的になったが、このような観点から招魂復魄儀礼の属性を 考察してみることにしよう。

脱魂型シャーマニズムは上昇的で自分の魂を超自然的な世 界へ飛翔させるが、憑霊型シャーマニズムは反対に自身に向 かって神霊を下降させる特徴を持つ。現代世界では憑霊型 シャーマニズムが多いが、両者が並存している所やシャーマ

9) 加地伸行, 前掲書, pp.30-31.

10) 加地伸行, 前掲書, pp.32-33.

11) 加地伸行, 前掲書, p.35.

12) エリアーデ / 堀一郞 譯, 『シャーマニズム』(東京 : 冬樹社, 1974).

(Eliade, Mircea, Shamanism, translated. by W, R, Trask, London : Routledge & K, Paul, 1964).

(5)

ン個人が二つの形態を行う場合もあるので、地域別にその分 布を分類することは容易ではない。

概して憑霊型シャーマニズムは南方系として知らされてお り、古代中国の長江流域ではこの型が発達している。一方、

黄河流域では脱魂型シャーマンが活躍しているという。13) こ のことから暫定的にではあるが、儒教儀礼の原形としての招 魂復魄儀礼は魂と魄を合わせる技法を使った憑霊型シャーマ ニズムの一種と推定することができる。

ところで、魂魄を合わせて死者を現世に再生させるシャー マニズム儀礼を実施する場合、魄が不可欠なので、儀礼の前 提として頭蓋骨を抽出する葬制が先行されなければならな い。加地は頭蓋骨をはじめとして骨を取り出す葬制の名称を はっきりと言及していないが、それは複葬(または二重葬)と推 定される。

複葬とはまず死体を仮埋葬した後、肉が腐敗した後に遺骨 を取出したあと、再度埋葬する形式の葬祭である。地域に よって多様な形態があり、一次葬が台上葬や火葬の場合もあ る。筆者は招魂復魄儀礼が複葬に伴う死者儀礼であったと推 定し、儒教の死者儀礼である喪・祭禮の起源が複葬にあると いう前提のもとに議論を進めようと思う。

(2) 複葬の文化的系譜とその主体

前に喪・祭礼の根源である招魂復魄儀礼が南方系のシャー マニズムに属していることを指摘したが、複葬の文化的系譜 もこのような見解から把握できるだろうか。まず、世界の複 葬の分布から調べてみるようにする。

複葬は特に熱帯アメリカ、インドネシア、メラネシア、

ニュージーランドとともに赤道を中心にする地域に分布して

13) 諏訪春雄, 『日本王権神話と中国南方神話』(東京 : 角川書店, 2005), pp.48-49.

(6)

いるが、アフリカでは珍しい。14) 東南アジアでは大陸だけで なくインドネシア、メラネシア、ポリネシア、オセアニアの 島までも広く分布している。現代中国では南部の少数民族中 ヤオ族(Yao)15)や苗族(苗族、Miao)16)がこの複葬を実施して いて南部の漢族にも見られる。17)

このような東南アジアや中国南部で見られる複葬は大きく 二つの文化系統に分けられるという。一つは東南アジアから オセアニアにかけた定着農耕地域に中心があるもので、その 特徴は洗骨葬、頭蓋骨崇拝、死者に対する祭祀、死に対する 不浄観念そして地下他界観である。

他の一つもやはり東南アジアとオセアニアに中心がある が、その特徴は舟葬と海上他界観にあり、太陽と船が結びつ いた観念、鳥と船が結合する観念18)などが発達している。19) 舟葬を実施している地域はポリネシア、ミクロネシア、メラ ネシアの様々な島に分布している。舟葬をせずとも舟形の棺 を利用する場合もあるが、それはミクロネシアやメラネシア の島々だけでなく、三世紀の四川省、中国南部の苗族、イン ドのアッサム(Assam)山地民族にも分布している。そして

14) 大林太良, 『葬制の起源』(東京 : 中央公論, 1997), p.115. (초판 東京 : 角川書店, 1965)

15) 中国南部から大陸東南アジアの産地部に居住する民族。主に移動を伴う 焼畑耕作を営んで陸稲、とうもろこし、里芋などを栽培する。定着し た部族は水稲耕作を営む。民族の起源は古代湖南の産地住民と見る説 が有力で、漢族文化の影響が強い。祖先崇拝を重視する。

16) 中国南部と大陸東南アジアの産地および山間部に居住する民族。焼畑で 陸稲、とうもろこし、里芋、雑穀を耕作する。地域によっては段々畑 で水稲耕作をする。民族の起源に関しては古代の湖南省産地住民と見 る説が有力。焼畑と他民族による軋轢のため南下移動し、現在のよう な広い分布を見せるようになった。

17) 大林太良, 前掲書, pp.226-227.

18) このような観念の由来として船と鳥の形態上の類似性、鳥も船も死者の 霊魂を運ぶという観念、航海の時に鳥を船上に乗せて利用する慣習など が指摘されている。

19) 大林太良, 前掲書, pp.228-229.

(7)

「魂を積んだ船」をモチーフにした模型がインドネシアに数 多く分布している。20)

上の二種類の複葬の文化系統は本来同じ文化圏に属してい たが、一部が東南アジアの初期金属器文化であるドンソン文 化(Dong Son culture)21)の影響を受け、海上他界観と結合し て後者の形態になったと考えられている。22)

ところで、中国古代文明が発想された黄河流域は、複葬が 発達している赤道付近から遠く離れている。東南アジアやオ セアニアを中心に分布している複葬が、儒教文化の発祥地ま でどのような契機で伝播したのだろうか。

これについて、大林太良(おおばやし・たりょう、1929~

2002)は古代中国の葬祭の過程に見える「米のとぎ汁で死体を 入浴させる」、「口の中に米を入れる(飯含)」のような儀礼を 根拠とし、稲作文化を中心に発達した中国南部文化の影響と 考えた。23) すなわち彼は複葬と稲作が関連があると見たので ある。

一連の文化要素(cultural element)が集まって構成された文 化の総体を文化複合(cultural complex)というが、依田千百 子(よだ・ちほこ、1943~ )は長江流域で形成された文化複 合には稲作と複葬が同時に含まれていると考えた。彼はそれ を「水稲栽培(畑作複合)・漁撈民文化(水稲栽培[畑作複合]・

漁撈民文化)」と命名した。24) 暫定的だが、ここで稲作文化 の伝播を糸口に儒教発祥地までの複葬の伝播の背景を推定し ようと思う。

20) 大林太良, 前掲書, pp.240-242.

21) ベトナム北部の紅河流域を中心に成立し、紀元前4世紀頃から紀元1世 紀頃まで続いた。祭器としての青銅器が発達し、特色のある銅鼓が有名 である。また鉄器も知られている。

22) 大林太良, 前掲書, p.244.

23) 大林太良, 前掲書, p.226.

24) 依田千百子, 『朝鮮民俗文化の研究』(東京 : 瑠璃書房, 1985), pp.490-492.

(8)

80年代まではアジアの稲作は「雲南省起源説」が有力だっ たが、90年代以後長江下流の河姆渡遺跡(7,600年前)や中流の 彭頭山遺跡(10,000年前)、仙人洞遺跡(14,000年前)等が発見 され、稲作文化の起源は「長江中・下流域起源説」が定説に なった。25)  遺跡を年代順に整理した場合、まず長江中流域 で短期間に下流に降りて根をおろし、その後徐々に上流に上 がりまたは南下したと推定されている。26)

高温多湿な長江流域は、稲をはじめとする多様な穀物だけ でなく水産資源も豊富だが、対照的に黄河流域は低温乾燥し た地域であったため雑穀栽培と遊牧が発達した。ところで両 者の中間的な位置にある黄河南部と淮河北部からなる「黄淮 地域」は新石器時代以来、稲作と雑穀栽培が同時に実施され てきた。27)

儒教の発祥地はまさにここに該当し、新石器時代から稲作 文化の影響下にあったことがわかる。事実、長江流域、黄淮 地域、山東半島、朝鮮半島を経由して日本九州に達する経路 は、多くの研究者によって稲作文化が日本に伝播した主流の 経路として認められている。これは長江流域と儒教の発祥地 が文化的に連結していることを物語っている。28)

では、このような文化複合の主体は歴史上どのような名称で 現れたのであろうか。中国古典によれば江南には越人という 人々が居住していたという。『呂氏春秋』や『漢書』には、

越南から長江下流域の会稽にいたる地には百越(越人を総括し て示す言葉)が住んでいるという記述があり、彼らが初期の稲 作文化の主体と推定される。29)

25) 安田喜憲, 『日本古代のルーツ長江文明の謎』(東京 : 青春出版社, 2003), pp.67-70.

26) 諏訪春雄, 「中国からやってきた倭人の文化」, 沖浦和光 編, 『日本文 化の源流を探る』(大阪 : 解放出版社, 1997), pp.81-82.

27) 諏訪春雄, 「中国からやってきた倭人の文化」, 沖浦和光 編, 前掲書, pp.82-83.

28) 中橋孝博, 『日本人の起源』(東京 : 小学館, 2005), pp.191-192.

(9)

彼らは新石器時代から各土地に分かれて土着しており、長 江流域だけでなく、東南アジアまで広範囲な地域に住んでい た。しかし、その一部は5,000年前に漢族が建てた商や周 などに吸収された。30)

また、約4,000年前から気候の変動が起き、寒冷化・乾 燥化が進み、漢族が南下して越人の居住地に侵入した。特に 約3,000年前の深刻な寒冷化・乾燥化は漢族を長江流域に 大挙進出させ、越人は発達した金属器と騎馬文化を持った漢 族に圧迫され長江流域から離れることとなった。ある集団は は雲南省や貴州省のような山間地に、またある集団は海を 渡って台湾や朝鮮半島、日本にまで進出した。31)

春秋戦国時代には百越の中の於越が越国を、句呉が呉を樹 立したが、越が呉を滅亡したとき(B.C.473年)、呉の人々は流 浪民として朝鮮半島や日本列島に渡った。引き続き越は北上 して山東半島に遷都し朝鮮半島や日本まで進出したが、まも なく楚に滅ぼされた(B.C.334年)。その時やはり多くの流浪民 たちが朝鮮半島や日本列島に渡っていった。このような過程 を経て、幾度も朝鮮半島や日本列島に移住したが、彼らの子 孫がまさに倭人と呼ばれた人々になったという。32)

近年、B.C.3世紀からA.D.3世紀に日本に稲作を伝えた渡来 系弥生人から抽出したミトコンドリアDNAを周辺アジアの現 代人のそれと比較した結果、本土日本、朝鮮半島、山東半島 集団が密接な関連があることが確認されが、33)当時の民族移

29) 『周禮』『逸周書』『路史』などには越人の于越、南越、句吳、駱越、

蛮揚、欧人、目深、夜郎など多様な民族が記録されている。

30) 諏訪春雄, 「中国からやってきた倭人の文化」, 沖浦和光 編, 前掲書, pp.71-72.

31) 安田喜憲, 前掲書, pp.113-115.

32) 諏訪春雄, 『日本王権神話と中国南方神話』(東京 : 角川書店, 2005), pp.55-56.

33) 篠田謙一, 「ミトコンドリアDNAからみた東アジアと日本」, 九州大学 大学院比較社会文化研院, 『シンポジウム 東アジア社会の基層』,2004.

1, p.6.

(10)

動の一端を見せる例といえよう。

それと共に越人は政治的に中原の漢族に支配されたにもか かわらず、早くから彼らに文化的影響を及ぼしたと推定され るが、その過程で複葬も共に伝播したと思われる。彼らが発 展させた長江流域の文化は現在「長江文明」として多くの学 者らの関心を集めている。

ところで、儒教発祥地の複葬の文化的系統が地下他界観と 関連したものであるか、海上他界観と関連したものであるの かが明らかでないが、この究明には古代中国文化に対する詳 細な検討が必要だろう。

前に喪祭礼の根源である招魂復魄儀礼が南方系のシャーマ ニズムに属していたことを指摘したが、複葬の文化系統もこ のような観点から把握することができるだろうか。先に世界 の複葬分布から調べてみるようにしよう。

複葬は特に熱帯アメリカ、インドネシア、メラネシア、

ニュージーランドとともに赤道を中心にする地域では分布し ているがアフリカでは珍しい。東南アジアでは大陸だけでな くインドネシア、メラネシア、ポリネシア、オセアニアの島 まで広く分布している。現代中国では南部の少数民族中ヤオ 族(Yao)や苗族(Miao)が複葬を実施しており、南部の漢族にも 見られる。

このような東南アジアや中国南部で見られる複葬は大きく 二種類の文化系統に分けられるという。一つは東南アジアか らオセアニアにかけた定着農耕地域に中心があるもので、そ の特徴は洗骨葬、頭蓋骨崇拝、死者に対する祭祀、死に対す る不浄観念そして地下他界観が発達していることである。

他の一つは、東南アジアとオセアニアに中心があるが、そ の特徴は舟葬と海上他界観にあり、太陽と船が結びついた観 念、鳥と船が結合する観念などが発達している。舟葬を実施 している地域はポリネシア、ミクロネシア、メラネシアのさ まざまなな島に分布している。舟葬をせずとも舟形の棺を利

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用する場合もあるが、それはミクロネシアとメラネシアの 島々だけでなく、三世紀の四川省でも中国南部の苗族やイン ドはアッサム(Assam)の産地民族まで分布している。また、

「魂を乗せた船」をモチーフにした模型がインドネシアに多 く分布している。

上の二つの複葬の文化系統はもともとは同じ文化圏に属し ていて、一部が東南アジアの初期金属器文化のドンソン文化 (Dong Son culture)の影響を受け、また海上他界観とも結合 して後者の形態になったと考えられている。

ところで、中国古代文明が発祥した黄河流域は複葬が発達 している赤道付近から遠く離れている。東南アジアやオセア ニアを中心に分布している複葬が儒教文化の発祥地までどの ような契機で伝播したのであろうか。

これに関して、大林太良(1929~2002)は古代中国の葬制の 手続きに見える「米のとぎ汁で死体を入浴させる」、「口の 中に米を入れる(飯含)」のような儀礼を根拠として、これらの 儀礼が稲作文化を中心に発達した中国南部文化の影響とみ た。すなわち、彼は複葬と稲作が関連があると見たのであ る。

一連の「文化要素(cultural element)」が集まって構成され た文化の総体を「文化複合(cultural complex)」というが、

依田千百子(1953~ )は長江流域で形成された文化複合には稲 作と複葬が同時に含まれていると考えた。彼はそれを「水稲 栽培(畑作複合)・漁撈民文化(水稲栽培[畑作複合]・漁撈民文 化)」と命名した。暫定的だが、ここで稲作文化の伝播を糸口 として儒教発祥地までの複葬の伝播の背景を推定しようと思 う。

80年代までアジアの稲作は「雲南省起源説」が有力だっ たが、90年代以後、長江下流の河姆渡遺跡(7,600年前)や中 流の彭頭山遺跡(10,000年前)、仙人洞遺跡(14,000年前)等が 発見され、稲作文化の起源は「長江中・下流域起源説」が定

(12)

説となった。遺跡を年代順で整理する場合、まず長江中流域 から短期間に下流に降り、そこで根をおろした後に徐々に上 流に上ったりまたは南下したと推定されている。

高温多湿な長江流域は稲をはじめとする多様な穀物だけで なく水産資源も豊富だったが、これとは対照的に黄河流域は 低温乾燥した地域であったため、雑穀栽培と遊牧が発達し た。ところで、両者の中間的な位置にある黄河南部と淮河北 部になった黄淮地域は新石器時代以来稲作と雑穀栽培が同時 に実施されたと推定されている。

儒教の発祥地はまさにこれに該当し、新石器時代から稲作 文化の影響下にあったことがわかる。事実、長江流域、黄淮 地域、山東半島、朝鮮半島を経由して日本九州に達する経路 は稲作文化が日本に伝播した最も主な経路として様々な学者 によって認められている。これは長江流域と儒教発祥地が文 化的に連結していることを物語っている。

では、このような文化複合の主体は歴史上どんな名称で現 れたのだろうか。中国古典によれば江南には越人という人々 が生きていたという。『呂氏春秋』や『漢書』には「越南か ら長江下流域の会稽に至る間には百越(越人を総括して示す言 葉)が混ざって住んでいた、という記事があり、このような 人々が初期の稲作文化の主体と推定される。

彼らは新石器時代から各土地に分かれて土着していたし長 江流域だけでなく東南アジアまで広範囲な地域に住んだ。し かし、その一部は5,000年前に漢族が樹立した商や周など に吸収された。

また、約4,000年前から気候の変動が起きて寒冷化・乾 燥化が進み、漢族が南下して越人の居住地に侵入した。特 に、約3,000年前の深刻な寒冷化・乾燥化によって漢族を 長江流域に大挙押し寄せ、越人は発達した金属器と騎馬文化 を持った漢族に押されて長江流域を離れることとなった。あ る部類は雲南省や貴州省のような山間地帯で、またある部類

(13)

は海を渡って台湾や朝鮮半島、日本に追われた。

春秋戦国時代には百越中、於越が越を、句呉が呉を樹立し たが、越が呉を滅亡させて(B.C.473年)呉の人々は移流民とし て朝鮮半島や日本列島で渡った。続いて越は北上して山東半 島に遷都することによって朝鮮半島や日本まで進出したが、

まもなく楚に滅ぼされた(B.C.334年)。その時もやはり多くの 移流民が朝鮮半島や日本列島に渡っていった。このような過 程を経て、幾度も朝鮮半島や日本列島に移住したが、その 人々の子孫がまさに倭人だと呼ばれる人々になったのであ る。

最近、B.C.3世紀からA.D.3世紀に日本に稲作を伝えた渡 来系弥生人からで抽出したミトコンドリアDNAを周辺アジア の現代人のそれと比較した結果、本土日本・朝鮮半島・山東 半島集団と密接な関連があるということが確認されたという が、当時の民族移動の一端を見せてくれる例と言える。

このように、越人は政治的に中原の漢族に支配されたにも かかわらず、早くから彼らに文化的影響を及ぼしたと推定さ れる。そのような過程で複葬も共に伝播したことと考えられ るが、越人が発展させた長江流域の文化は現在「長江文明」

として多くの学者たちの関心を集めている。ところで、儒教 発祥地の複葬の文化的系統が地下他界観と関連したのか、海 上他界観と関連したのかが明らかでない。これの究明には古 代中国文化に対する詳細な検討が必要であだろう。

(3) 複葬の発生契機と象徴構造

1) 複葬の発生契機

ところで、複葬を成立させる観念の発生契機は何であった であろうか。この観念は人類の開始からあったのではなく、

(14)

ある状況下である契機から発生したものと考えられるが、こ れに対しては次のような示唆的な研究がある。

多様な形態で行われている葬祭は、死者に対する二つの基 本的な態度の表現によって形成されているという。34) 一方で は死体の「破壊」が、他の一方では死体の「保存」という行 為に成って現れるが、両者は各々別の文化系統に属するとい う。このような観念の背景には生者の死者に対する態度が反 映されており、前者の行動様式は死体に対する「恐怖」によ るもので、後者は「親しみ」の感情を墓の中までずっと維持 しようとする態度によるものであるという。

死者を取り巻く恐怖と親しみの態度を初めて指摘したレ オ・フロベニウス(Leo Frobenius,1873~1938)は両者の関 係を次のように説明する。すなわち、死者に対する恐怖心が 先んじる場合は死者との関係を断絶しようとする心理がはた らき、死者を家から移して墓穴を掘って土で覆う葬法を採用 することになる。一方、死者に対する愛情や尊敬、死者との 関係を維持しようとする態度が先んじる場合、できるだけ死 者を保存しようとする。未開社会で死者に対する人々の心理 は恐怖と親しみの間で動揺しており、これに伴い葬式の慣習 も 死 体 の 「 破 壊 」 と 「 保 存 」 間 で 動 揺 す る と い う の で あ る。35)

葬祭に含まれている二つの行動様式と、これにともなう二 重的な態度に人類学者の関心が集められたが、概して植物採 集民族や狩猟民族の間では死体に恐怖を感じて破壊する傾向 が強い。もし死者を悪霊として認識するだけなら、墓地をつ くることもなく遺骨を管理することもないだろう。また、悪 霊を避けるための呪術はありえても、死霊を祖霊に祭り上げ

34) 大林太良, 前掲書, p.26.

35) Leo Frobenius, translated by A. H. Keane. The childhood of man, New York : Meridian Book, 1960. 大林太良, 前掲書, pp.41-42에서 引用.

(15)

る儀礼もありえないであろう。

一方、アフリカや東南アジアの太平洋にかけた農耕民族は 死者と親しい関係を維持するために死体を保存しようとす る。このような態度は祖先崇拝観念と親和性があることは言 うまでもない。この観念は農耕という生業自体ではなく、長 い間の定住生活と関連があると考えられるが、その根拠とし て 定 住 度 が 高 い 狩 猟 採 集 民 の 間 で も 複 葬 が 見 ら れ る と い う。36)

ただし複葬の発生契機は必ずしも解明されたわけではな く、ただ長い間の定住生活の結果として死者と生者にある親 しい関係を維持しようとする自覚が生じることにより、遺骨 の処理と管理、保管などのさまざまな要因が作用して発生し たとだけは言えそうである。

2) 複葬の象徴構造

ロべール・エルツ(Hertz Robert,  1881~1915)は複葬の 意味体系に関する先駆的な研究者として知られている。彼は 東南アジアの未開社会のある葬制を観察した結果、観念上、

身体の状態と魂の状態の間に相関関係があることを発見し た。すなわち、人が死亡すれば現世からあの世に移行し、そ こで魂として生まれ変わる。死亡後、現世では死体の腐敗の 進行程度にしたがって、あの世で魂の再生が行われるとい う。その期間中は死者の霊魂が現世に留まっていて、喪服者 たちの恐怖の対象になっているという。37)

36) 大林太良, 前掲書, p.117.

37) Hertz, R, translated by R. and C. Needham with an Introduction by E.E.Evance-Pritchard. Death and the Right Hand. New York:

Free Press. 1960. pp.45-46. メカーフ・ハンティントン / 池上良 正・川村邦光 訳, 『死の儀礼-葬送習俗の人類学的研究-』(東京 : 未来 社, 1985), p.103から引用.

(16)

死体の腐敗が進行される過程をエル使う肉を基準として

「解体」や「消滅」という表現を使っているが、骨を基準と して見れば「浄化」と表現することができる。あの世にいけ ない状態の死者は喪服者たちに恐怖の対象であるから不浄の 存在と解釈することができる。したがって、物質的な浄化期 間はまさに霊的な浄化期間と見なされ、両者は並行関係にあ るといえる。また不浄の魂が浄化された魂に移行する現象は 他の視点から見れば「不安定」な魂が「安定」な魂に変化す る現象と解釈することができる。

このような複合的な意味を内包している過程が複葬の一次 葬である。魂が浄化されて安定した状態になる時、はじめて 死者はあの世にいき、喪服者たちには危険な存在でなく恩寵 をもたらす存在になることができるのである。この段階に なってはじめて行えるのが二次葬である。

複葬で起きている過程を象徴人類学的な観点から見れば、

次のとおりに説明されるであろう。まず、一次葬で死体の腐 敗が進行する間はまもなく死者が安定した位置を確保するた めの「移行期間」と見なすことができる。人生の過程におい て新しい位置に移行を表明する儀礼は、一般的に「通過儀 礼」と呼ばれているが、一次葬の際に成り立つ儀礼も通過儀 礼として把握できる。もちろん死者はすでに生きている状態 ではないが、人々によってまだ社会的な人格体と認識されて いるという意味で、死者儀礼は通過儀礼の一種と把握するこ とが可能である。

通 過 儀 礼 の 古 典 的 な 研 究 と し て ヴ ァ ン ・ ヘ ネ ッ プ (Gennep,Arnold van,1873~1957)の『通過儀礼』38)がよく 知 ら れ て い る が 、 ビ ク タ ー ・ タ ー ナ ー ( T u r n e r , V i c t o r Witter,1920~1983)39)もその象徴的な構造を説明した。彼ら

38) 반 건넵 / 전경수 역, 『통과의례』(서울 : 을유문화사, 2000).

(Arnold van Gennep, translated by Monika B. The rites of passage, Chicago : University of Chicago Press, 1960).

(17)

の見解はある位置を喪失して他の位置を得るまでの移行期間 をどちら側にも定まっていない曖昧な「境界性」(liminality) として把握しているという点で共通する。境界性は日常的な 秩序を逸脱した状態として一種の「非日常」あるいは「反秩 序」ということもできる。一次葬の場合も死者は生きていな いが、かと言って完全な死者でもない一種の境界性の中にあ ると見ることができるのである。

また、リーチ(Leach, Edmund Ronald,1910~1989)40)も 儀礼時間の象徴的モデルを提示しているが、彼は儀礼の展開 過程を四つの局面から分類した。まず、境界性に達する前段 階の「聖化・分離」、二番目は「境界状態」、三番目は境界 性の後段階の「脱聖化」、四番目は「日常的世俗生活」であ る。この構造を複葬と照合させれば、一次葬は「聖化・分 離」に該当し、二次葬は「脱聖化」に該当する。

上の学者らの見解を総合して複葬の象徴構造をモデル化さ せれば、<図1>のように表されるであろう。「魂の状態」,

「魂の位置」,「喪服者の心理」,「喪服者との関係」の各状態 は物理的な現象としての「死体状態」の程度として象徴され る。

39) Victor Turner, The forest of symbols: aspects of Ndembu ritual (N.Y. : Cornell University Press, 1967).

40) リーチ / 青木保・井上兼行 訳, 『人類学再考』(東京 : 思索社, 1974), pp.228-230. (Leach, Edmund Ronald. Rethinking anthropology, London : The Athlone Press, 1961).

(18)

<図 1>  複葬の象徴体系モデル

3. 古代中国の死者儀礼 (1) 死者儀礼の発生

では古代中国の葬制として複葬が定着した契機は何だろう か。一般的に古代中国の死者儀礼の特徴は次のようにり知ら れている。中国の人々に他界観念が明確に認識されたのは漢 代以後であり、秦代以前は明確でなかったという。41)  死後 魂の存在も信じなかったという訳ではないが、儒家を含む中 国の思想家たちはそれを重視しない傾向があった。もちろ ん、儒教体系の中で死者儀礼は非常に重視されたが、孔子 が、「今だ人生を知ることができていない状況で死というも のを知ろうとする必要はない」という立場42)を表明したた

41) 具聖姬, 「漢代의 靈魂不滅觀」, 중국사학회, 『중국사연구』제28집, 2004.

42) 子路が「死者の霊魂や神々に奉仕しようとするならどのようにすれば良

       1次葬 2次葬

死体の状態 死体の腐敗 遺骨

霊魂の状態 不浄の死霊    浄化された死霊

霊魂の位置 この世とあの世の中間  あの世

服喪者の心理 恐怖     親しみ

服喪者との関係 危険な存在 有益な存在

<生者>   死   移行期間       死の完了<死者>

   <境界性>

<聖化・分離> <脫聖化>

<日常的世俗生活>      <日常的世俗生活>

(19)

め、死後の魂の実在は一旦保留状態になっていた。代わりに 儀礼を通じて、それを行う人の心がけや倫理道徳を表わす行 為が重視された。すなわち、儒教では死後の世界は強力なド グマとしての位置を占めることができなかったと言える。

そのような中で、戦国時代には儒教の経典として重視され た『儀礼』の中の「喪服」・「士喪礼」・「既夕」・「士虞 礼」や『礼記』に記述された死者儀礼の手続きには死後の世 界の存続観念が明確に現れている。特に『儀礼』「士喪礼」

は後代に『朱子家礼』を体系化するにあたり基本的なテキス トとして祭祀の根源になっている。

(2) 死者儀礼の象徴構造

池田末利(1910~?)は『儀礼』「士喪礼」に記述されてい る死者儀礼からできるだけ後代の潤色を除去し、本来の形態 を次のように推定した。

① 楔・綴足:死体が硬直しないように、さじを歯の間に挟んで 机で脚を拘束する。

② 沐浴:米のとぎ汁で死体を入浴させる。

③ 飯含:爪やひげを整理して服を着せる。布で顔面を隠し、口 の中に貝と米を入れる。

④ 襲:頭と顔を隠し、耳を白い綿で防ぎ、服を着せて全身を寿 衣で纏う。ここまでが死亡当日の儀礼である。

⑤ 小殮:翌日、十九重ねの服を着せ、ふとんで隠し死体を部屋 から堂に移す。

いでしょうか」と尋ねた。孔子は「まだ生きている人々に奉仕できてい ないのにどうして神霊に奉仕することができるだろうか」と答えた。子 路がまた尋ねた。「では死とは何ですか。」すると孔子は「まだ生きて いるのも分からないのに死が分かるはずはないだろう」と答えた。(季路 問事鬼神. 子曰,未能事人,焉能事鬼. 敢問死. 曰,未知生,焉知死. 『論語』

「先進第十一」).

(20)

Ⅰ.招魂儀禮 (復)

Ⅱ.第一次葬(殯=屋內葬)

⑴入棺準備-①楔・綴足 ②沐浴 ③飯含 ④襲 ⑤小殮   ⑥大斂

⑵入棺-⑦殯

Ⅲ.第二次葬(葬-移葬=屋外葬) ⑧啓殯 ⑨祖 ⑩葬

⑥ 大斂:三日目、三十重ねの服を着せる。

⑦ 殯:堂の中の西側に掘っておいたくぼみに置かれた棺に移し て安置する。ここまでが一次葬だ。

⑧ 啓殯:殯を終えて三ヶ月後に二次葬をする。その前日に嬪宮 を開いて棺を祖廟に移す。

⑨ 祖:棺を車に乗せて儀礼をする。

⑩ 葬:墓壙に移して棺をおろして副葬品を入れる。

さらに池田は次の<図2>のように死体を一旦室内に埋葬し て(殯=屋内葬)、一定の期間を置いてから野外で移葬する(葬- 移葬=屋外葬)構造、すなわち複葬式の構造を抽出したのであ る。43)

   <図 2> 古代中国の葬制の基本構造 출전 : 池田末利(1955), pp.62-65.

ところで、室内に埋葬して三ヶ月後で啓殯を実施する(⑧)とされて いるが、東南アジアのような湿気と温度が高い地域の野外で埋葬した

43) 池田末利「古代支那に於ける死者儀礼の特色」日本人類学会『日本民族 協会第9回連合大會要旨』, 1955, pp.62-65. 大林太良, 前掲書, pp.224-226. から引用。  最近、池沢優(1958~ )もやはり『儀礼』

の「喪服」,「士喪礼」,「旣夕」,「士虞礼」を分析し、死者儀礼におけ る基本的な構造と複葬との類似性に注目し、全体的な構造において複葬 と類似の構造を持っていることを指摘している。池澤優「死の先にある 未来-宗教的終末論における滅びと望み」東京大學総合研究会『未来』

(東京 : 東京大学出版会, 2002), p.213.

(21)

とすれば可能かもしれないが、事実上、三ヶ月では白骨化は完了しな いであろう。

では、白骨化が完了していない状態で二次葬を実施しなければなら ない理由はどこにあるだろうか。恐らく認識上の変化が起きたのでは ないかと推定される。つまり、「魂の状態」、「魂の位置」、「喪服 者の心理」、「喪服者との関係」等がことなる位置に移される「履 行期間」を決める判断基準が白骨化という物理的な現象だったのであ る。しかし、象徴を操作する儀礼化が進行された結果、物理的な変化 に先立ち、三ヶ月の固定的な時間が重要に考えられるようになったと 思われる。その結果、白骨化の完了可否に関係なく、三ヶ月過ぎた後 に二次葬を実施することになったのであろう。

古代中国で複葬をした際、初期には死体を風雨に晒して腐敗を促進 させたが、後代には禽獣から死体を保護するために土で覆うように なった。したがって、死体の腐敗にかかる期間が長くなった。空気が 乾燥した中国の黄河流域では腐敗が完了するのに約二年かかった。こ の事実を経験的に知っていた古代中国人は臨終から始まる「死」が二 年後に完了するという認識を持つことになったのである。

この期間は後代に儒教儀礼に継承され、二年という期間を儒教では

「三年喪」として定形化させた。二年と三年喪には数値に差があるよ うに見られるが、この差は儒教の日を数える特別な方法による。すな わち「年齢は誕生日の翌日から、命日は死亡した前日から数える」

(『礼記』曲孔上篇)のである。その理由は新生児に対しては将来の幸 福を願ってであり、死者に対しては生前を追慕するためである。例え ば死亡した場合は満二年に特別に追加した一日を加え、年数で三年す なわち25ヶ月目を三年喪と定めて完了したと考えたのである。44)

このように、物理的な現象を象徴的な儀礼が代わるようになり、白 骨化にかかった期間が喪礼が完了する期間としてそのまま適用された ようだ。

44) 加地伸行, 前掲書, pp.82-83.

(22)

4. 韓国の喪・祭礼

(1) 儒教式死者儀礼の導入

韓国に喪・祭礼は性理学が導入された高麗末から順次挙行 され始め、朝鮮時代以後、官吏の間で家廟の設立と『朱子家 礼』の準行が広がり普遍化した。

喪祭が導入された高麗末には、民衆意識に影響を及ぼした 宗教として、土着信仰の他に仏教が存在した。特に高麗時代 の特徴を現わす仏教は「事君・事親・善生・送死」等、生活 全般にわたって影響力を及ぼし、社会構造が仏教と融合して いたため、当然葬祭も仏教式で行われた。概して仏教式死者 儀礼の核心は火葬、追薦、そして斎に要約されるが、高麗時 代にはそれらが僧が要請されて行われた。45)

高麗末に『朱子家礼』に基づいて行われた家廟祭祀に関す る法令が公布される前は、高麗時代はもちろん朝鮮時代の初 期までも仏教式の祭祀を行った。46) 高麗時代は一般的に死亡

→火葬・収骨→仏事遺骨権安→埋葬(埋骨)の過程を踏んでい た。47)

ところが高麗末・朝鮮初期の新王朝を開いた新進士大夫た ちは、前王朝とは異なる新しい社会体系の形成のためのイデ オロギー的基盤を用意するために、人為的・強制的に支配宗 教の交替を進めた。48) 社会構造の構成原理がそれほど変化し ない状態において性理学が導入され、新王朝が開かれるやい なや儒教喪・祭礼が強要されたのである。もちろん、この法 制化は高麗朝にもあったが、実践される基盤はなかった。

45) 安浩龍, 「유교의례의 보편화와 전통사회의 구조화―상・제례를 중심 으로―」, 한국정신문화연구원, 『한국의사회와 문화』제21집, 1993, p.69.

46) 崔在錫, 『韓國古代社會史硏究』(서울 : 一志社, 1987), p.610.

47) 崔在錫, 上掲書, p.554.

48) 安浩龍, 前掲論文, p.69.

(23)

しかし、朝鮮初期には朝鮮建国の主導勢力らが統治理念と して性理学を採択したので体系的な法制化を進行し、国家次 元の公権力まで動員して普及に努めた。ところが、これは中 国式の『朱子家礼』を忠実に守ろうとしたものであり、当時 の現実を反映していなかったため、住民たちの反発のため適 用に困難を伴うこととなった。その結果、喪・祭礼において 儒教的要素と仏教的要素が併用されたのである。

朝鮮初期には葬祭を儒教式と規定し儒教儀礼の法制化が進 行され、逸脱した場合は処罰を与え、順守されている場合は 褒賞を与える施策をとった。49) 当時の葬法は概して仏教式の 火葬と仏教以前から存在していた複葬、死体遺棄や埋葬など が混在していたと推定されるが、このような葬法を家礼の遂 行により、儒教式の「埋葬」で統一することが大きな課題で あった。

したがって、朝鮮前期、すなわち16世紀前半までは一種の 過渡期的な混合文化の時期だったと言うことができ、社会構 造も形式上は儒教化されていたが、本質的には過渡期的な状 態に置かれていたのである。韓国の儒教的喪・祭礼は17世紀 になってはじめて国家的な儀礼として庶民層に定着すること になったのである。

(2) 喪・祭礼の象徴構造

1) 礼書と慣行

まず、喪・祭礼の象徴構造を抽出する前に、礼書に記述さ れたものと実際に行われている慣例の間の差を認識し、両者 に共通の構造を把握する作業が先行されるべきであろう。

喪礼は死者の死体を処理する過程と喪明けの時まで三年の 間のすべての儀礼を包括する。この過程を厳密に前者が葬

49) 安浩龍, 前掲論文, p.104.

(24)

礼、後者が喪礼と区別できるが、一般的に葬儀と喪礼をまと めて喪礼といわれる。韓国喪礼を体系化した『事例便覧』と は『朱子家礼』を基本テキストとしてはいるが、古代中国の 葬祭を記録した『儀礼』も引用している。50) したがって韓国 喪礼の構造を把握するためには『朱子家礼』だけでなく古代 中国の葬祭までも考察の対象に含める必要がある。

『四礼便覧』によれば、本来喪礼の手続きは、初終・襲・

小殮・大斂・成服・弔喪・聞喪・治葬・遷柩・出棺(發靷)・及 墓・反哭・虞祭・卒哭・祔祭・小祥・大祥・禫祭・吉祭の総 19段階となっている。51) しかし、概して初終・殮襲・成 服・弔喪・治葬・發靷・及墓・虞祭・卒哭・小祥・大祥・禫 祭など全12段階と簡略していた。52)

朝鮮時代以後、喪祭は儒教を信奉している場合、どこでも 同じ標準によってほとんど似たように施行されたが、「家家 礼」という言葉で表現されるように、細部的な手続きや品目 には多様性が見られた。李光奎は実際に行われている慣行的 な喪礼の過程を次のように「初終」,「成服・発靷」,「治 葬」,「凶祭」の4段階に分類した。53)

初終: 死亡から入棺まで間に挙行される死体処理の儀礼が行わ れる段階

盛服・出棺: 入棺が終わった後、棺が家を出発して埋葬地に到 着する過程で儀礼が行われる段階

治葬: 埋葬地で儀礼をして合わせて墓を決める段階

凶祭: 葬儀挙行後、2年に達する期間、喪服者が世俗を遠けて謹 50) 『朱子家禮』にはなく『四禮便覽』にのみある儀礼とその典拠を見れば

「初終」の 楔齒, 綴足, 始死尊は『儀禮』「士喪禮」から、襲의 設氷 もやはり『儀禮』「士喪禮」から、「吉祭」に関する全ての儀礼は

『儀禮』「士虞禮」から引用し添加している。(張哲秀, 『韓國의 冠婚 喪祭』(서울 : 集文堂, 1995, p.97).

51) 『四禮便覽』, 喪禮 條。

52) 張哲秀, 前掲書, p.164.

53) 李光奎, 『한국인의 일생』(서울 : 형설출판사, 1985), pp.96-120.

(25)

慎する喪礼をする段階

次に祭礼の構成を調べてみよう。祭礼もやはり喪礼と同じよう に性理学が導入された高麗時代の末期から『朱子家礼』の遵行が 広がり普遍化したもので、亡くなった先祖に対する儀礼であり祖 先崇拝思想とともに儒教の孝観念の延長と考えられた。

一般的に韓国祭礼は次のように説明される。中国の『朱子家礼』

には祭礼の種類が「四時祭」、「初祖祭」、「先祖祭」、「禰 祭」、「忌日祭」、「墓制」になっているが、韓国の隷書には

「祠堂祭」、「四時祭」、「禰祭」、「忌日祭」、「墓制」の五 つの祭祀に縮小されている。現在、実際で行われているのは茶礼、

忌祭、時祭に簡略化されている。

これと共に外来儀礼が国内に入ってきてどんな要因で簡素化され て変容されたということだ。上に提示した変容をもう少し詳しく見 れば次のとおりである。

中国の『朱子家礼』と韓国礼書の差はすでに朝鮮時代に入ってか ら「初祖祭」と「先祖祭」がなくなっているが、両者は「墓祭」

で統合されたという。54) また、礼書と実際の慣例を比較すると、

「祠堂祭」、「四時祭」、「禰祭」なくなり、代わりに茶礼ができ た。また、墓祭は礼書によれば、本来年4回、すなわち清明、寒 食、重午そして重陽に挙行するということだったが、これを施行す るのがわずらわしいため、略式で一年に一回だけ挙行することに なった。

これに伴い、「墓祭」を「歳一祭」として節気や名節について行 う節祀と区別し、年を周期としてするという意味で「時祭」(または 時祀)ともいうことになった。55)

『朱子家礼』にはないが、韓国の慣例で重要な位置を占めている

「茶礼」はどのような契機に形成されたのだろうか。張哲秀は「祠 堂祭」に内包されている一部の要素が統合されて今日の慣例として

54) 張哲秀, 前掲書, p.30.

55) 李光奎, 前掲書, p.137.

(26)

行われている茶礼に変容したと考えた。56)本来、「祠堂祭」は家に 先祖を迎えておいた祠堂で行う祭祀であり、晨謁、出入告、正至 参、朔望參、俗節薦新、有事告の6種があった。

晨謁は夜明けに祠堂の門の中で先祖にみまえることで、庭で焼香 して再拜する。出入告とは家を出て行く時や帰ってくる時にk祠堂 に告げることをいう。正至参というのは元旦(正朝)や冬至に参礼 することをいう。朔望参は一日と十五日に参礼することをいう が、正至参と同じである。

俗節薦新は元旦、小正月、寒食、端午、秋夕、仲陽、冬至など、

季節が変わる時ごとに特別に作った食物を捧げ、野菜と果実を供え たのち、正至参と同じようにする。有事告は官職を得たり、子 女出生・冠婚・財政のようなことがある時、告げるもので、正至参 および朔望参と同じである。57)

張哲秀はその中で正至参と俗節薦新を茶礼の母体と考え た。また、李光奎は茶礼は本来、名節日に家の中に祭られた 先祖に行う四時祭であったと見た。四時祭は四季の仲月、つ まり陰暦二月、五月、八月、十一月の丁日または亥日に四大 祖までの祭祀を祭祀を行う母屋の部屋(正寝)で行うというもの であった。しかし、後代にある家門では元旦、寒食、端午、

秋夕のように決められた日に行う場合があり、またある家門 では正初日と冬至は固定されているが、他の月は一定の日を 定めず融通性をもち日を選んで実施する場合があるという。

回数も一年に四回、三回、二回と家により多様性がある。

今日のように茶礼が年初(旧正月)と秋夕(陰暦の十五夜)に固定 されたのは、それらが近年、祝祭日に定められてからだとい う。茶礼を年に三回行う場合は、年初と秋夕以外に寒食、端 午、冬至の中からで一日を選ぶ。58) このように、茶礼は正至 参、俗節薦新そして四時祭まで吸収した複合的な性格を持っ

56) 張哲秀, 前掲書, p.177.

57) 上掲書, pp.173-174.

58) 李光奎, 前掲書, p.134.

(27)

ている祭礼だといえる。

以上の上で言及した韓国の喪・祭礼を礼書と慣行を対比して提示 すれば、<図3>のとおりである。

<図3> 韓国の喪・祭禮の礼書と慣例の対応関係

2) 喪・祭禮の象徴構造

上の<図3>に提示した韓国の喪・祭礼が未開社会の複葬、

古代中国の死者儀礼と構造的な対応関係があるのかを検討し てみよう。

まず、死者を恐怖の対象として見る複葬の一次葬に伴う観 念が儒教の喪礼にも継承されていることが指摘できる。喪礼 期間の儀礼を全て引っくるめて「凶祭」というが、何よりも 名称自体がそれをよく表している。また、喪礼の開始の虞祭 (初虞祭、再虞祭、三虞祭)の意味は死体を地下に埋葬すること によって、体を離れた魂が彷徨することを憂慮するという が、59)これは死者が恐怖の対象と認識されていることをよく

韓国の喪・祭禮

礼 書 慣 行

喪 礼

葬 礼

初 終 初終

襲,小殮,大斂

成服,弔喪,聞喪,遷柩,發靷 成服・發靷

治葬,及墓,反哭 治葬

喪 礼

虞祭,卒哭,祔祭,小祥,大祥,禫

祭 凶祭

吉祭 吉祭

祭  礼

禰 祭 忌日祭

四時祭

祠堂祭(晨謁,出入告, 正至参,朔望參,俗節 薦新,有事告)

忌祭 茶禮

親盡墓祭 時祭

(28)

表している説明だといえる。

次に、その期間中の生活態度からも確認される。複葬にお いて白骨化が進行する履行期間は、死者の霊魂がこの世の中 に留まり生者を威嚇する不浄な存在なので、生者は「死の状 態」に置かれるべき時期と見なされている。

これと同じように、喪礼期間には喪服者の衣食住が厳格に 規定される。例えば食に対する規制として、初終の不食、小 祥の後の食菜果、禫祭の後の飲酒食肉などがあり、衣に対す る規制として、初終に「易服」、小殮に「括髪」、大祥に

「脱服」などがある。住に対する規制として大斂に「喪次」

で「寝苦枕塊」し、卒哭に「寝席枕木」し、吉祭の後の「復 寝」などがある。60) このように、喪服者に対する行動規定は 人間の基本的な生活条件人の衣食住にわたって適用されてい るが、その原形は複葬にあるようである。

また、複葬の遺骨と喪礼の神主の取り扱いにおいて共通点 が確認される。複葬では一次葬を終えて遺骨を掘りおこして 移葬するが、喪礼では大祥を終えた後に霊座を撤回して神主 を祠堂に迎えるという手続きになっている。61)  複葬では魂 の浄化が完了した表示として、遺骨の移葬という行為がある が、儒教儀礼では遺骨の代替物として魄を神主として使用 し、62)移葬を霊廟に安置する行為に代えられていると考えら れる。

また、喪礼で行われる一連の儀礼の流れは、死体が腐敗し て白骨化されていく一次葬の過程を象徴的な儀礼で演出して いるかのようである。喪礼の具体的な儀礼、すなわち凶祭は

59) 李光奎, 前掲書, p.113.

60) 張哲秀, 前掲書, p.168.

61) 李光奎, 前掲書, p.115.

62) 魄は本来頭蓋骨だったが後代に死者の顔を模倣した魌頭という模造物が それに代った。後代、より象徴化した正方形形の代替物に変わった。

さらに『朱子家礼』に記述されているような木版で作られた神主に変 わった。(加地伸行, 前掲書, p.37.)

(29)

初虞祭から始めて再虞祭、三虞祭、卒哭祭、祔祭、小祥、大 祥、禫祭、吉祭で構成している。

ところで各儀礼の手続きは降神、進饌、初献、亜献、終 献、侑食、闔門、啓門、辞神とされており、その内容は一部 を除いてほとんど同じである。63) このような事実は、各祭祀 の内容より儀礼の時期や頻度に重要な意味があるようであ る。例えば初虞祭は埋葬した当日の日、再虞制は初虞祭を経 た次の柔日64)、三虞祭はその翌日の剛日65)に行う。これから 三ヶ月後には卒哭制や祔祭を、その一年後には小祥、二年後 には大祥と禫祭を行う。最後にその翌月や百日後には吉祭を 行う。

初期には頻度が高いが、時間が過ぎるほど低くなる傾向が 確認される。これは複葬において死体の白骨化が進行される 速度、すなわち初めは腐敗が早いが徐々に遅くなる現象、言 い換えれば初めは魂の浄化が早いが徐々に遅くなる現象を儀 礼として表現しているようである。卒哭祭の後には、随時行 う「哭」の代りに、朝夕にする「朝夕哭」だけすることにな るのも同じ理由であろう。

凶祭が複葬の浄化過程を象徴している根拠はその名称から も知ることができる。すなわち、儀礼が後に行けば行くほど 浄化が完了した名称に変化しているのである。小祥、大祥の

「祥」の字はめでたいという意味で、禫祭の「禫」の字は静 かだ、安らかだという意である。凶祭を終わらせる吉祭の

「吉」の字は完全に浄化が完了した状態をよく表現してい る。

よく儒教では死者は恐ろしい存在ではなく、生きている時

63) 祔祭に参神(祭祀を行う時に、降神した次の神主に敬礼する)という手続 きがある。そして、吉礼に参神と受胙(祭祀を行った後に祭官が祭祀に 使った肉を分けること)が添加されただけである。(張哲秀, 前掲書, p.167.)

64) 天干が乙‧丁‧己‧辛‧癸である日。次に該当する日。

65) 日辰の天干が甲‧丙‧戊‧庚‧壬である日。陽に該当する日。

(30)

と同じような存在と認識されていると言われている。しか し、今まで見たように、複葬に由来した観念、すなわち初め は恐怖の対象であるが時間が過ぎるにしたがって親しみが回 復できる観念が継承されていることが確認される。このよう に、喪礼は複葬の一次葬を象徴化させた一連の儀礼で構成さ れているといえるであろう。

次に祭礼に対して調べることにしよう。上で喪礼が一次葬 の変容であるように、祭礼が二次葬の継承されたものである のか検討する必要がある。複葬の二次葬においては喪服者が 死者と親しい関係を回復しただけでなく利益をもたらす存在 となる。祭礼の各儀礼ではこのような観念に符合する儀礼が 行われるべきである。

これは、まず祭礼の祝文から確認される。忌祭の祝文は

「年の茶礼が移り亡くなられた日がまためぐってくると大い な感動し、永遠に思慕する心を抑えきることができずに祭祀 を差し上げる」66)となっており、墓祭の祝文も「季節の順序 が変わり、雨露が降りすでに濡れてきた。封墳を詳らかに見 回すと感動して思慕する心を抑えきれずに祭祀を差し上げ る」67)となっている。ここで死者に対する思慕の情が中心に なっているが、すでに恐れの存在ではなく親しみの存在と なっていることが確認される。

また、禰祭の祝文は「秋、万物が始まる時に感動し、追慕 の 心 が 広 い 空 の よ う に 限 り が な く な り 、 際 し を 差 し 上 げ る」68)となっていて、四時祭と禰祭のとき、福を祈る嘏辞内 容は「子孫に多くの福を下ろし、天の恵みを受けて穀物が実 り、長寿が全うできるうよう祈る」69)となっている。

66) 歲序遷易 諱日復臨 追遠感時 下勝永慕.

67) 氣序流易 雨露旣濡 瞻掃封瑩 不勝感慕.

68) 今以季秋 成物之始 感時追慕 昊天罔極.

69) 承至多福 于汝孝孫 來汝孝孫 使汝受祿于天 宜稼于田 眉壽永年 勿替引 之.

(31)

未開社会の 複葬

古代中国の死者儀 礼

韓国の喪祭礼

礼書 慣行

招魂儀礼

喪禮 葬禮

初 終

初終

一次葬 (屋內葬=殯)

入棺 準備

楔・綴足,沐浴,飯含, ,小殮,大斂

,小殮,大斂

成服,弔喪,聞喪,遷柩,發靷 成 服 ・ 発 治葬,及墓,反哭 治葬

入棺 殯 喪禮

虞祭,卒哭,祔祭,小祥,大祥,禫

凶祭

吉祭 吉祭

二次葬 (葬-移葬=屋外 )

啓殯,祖,葬 祭礼

禰 祭

忌日祭 四時祭

祠堂祭(晨謁,出入 ,正至参,朔望參, 俗節薦新,有事告)

忌祭 茶禮

親盡墓祭 時祭

このように、死者に対する感謝の気持ちだけでなく、死者 に長寿や豊作を願う言葉まであることを推察すると、すでに 喪服者には先祖神として有益な存在になっているということ が明らかである。

上で調べたように、韓国の喪・祭礼には複葬の一次葬と二 次葬の象徴構造が維持されていることがわかる。このような 対応関係を古代中国の死者儀礼の構造とともに提示すれば<図 4>のようだ。

<図 4> 

未開社会の複葬・古代中国の死者儀礼・韓国の喪祭礼の対応関係

韓国の喪・祭礼の慣行で「初終」、「成服・発靷」、「治 葬」は葬儀に関する事項の中で複葬の一次葬に、古代中国死 者儀礼の「復」と「入棺準備」に該当する。そして、「凶 祭」と「吉祭」は喪礼に関する事項の中の複葬の一次葬に、

(32)

古代中国死者儀礼の「殯」に該当する。

このような未開社会の複葬・古代中国の死者儀礼・韓国の 喪祭礼の三者の対応関係において、後になればなるほど象徴 化が進んでいることが指摘できる。複葬の一次葬では物質的 な「浄化」すなわち白骨化が重要な意味を持っていた。中国 古代の死者儀礼では儀礼による象徴的な「浄化」が導入さ れ、白骨化という物理的な浄化が形骸化したが、この時まで は啓殯としての殯は実施されていた。しかし、儒教儀礼とし ての喪・祭礼が確立されれば、象徴的要素がより一層強くな り、遺骨の代わりをする神主の開発を契機に改葬自体がなく なったのである。

こういう視点で見る時、朝鮮時代に繰り返し禁止された草 墳70)と同じ土着的な複葬と儒教喪・祭礼は文化的根元に差が あるのではなく、象徴化の程度に差があるとみるべきであろ う。

5. おわりに

本研究は、東南アジアを中心に発達した未開社会の複葬に内包され ている象徴構造が、古代中国の死者儀礼を経て韓国の喪・祭礼まで継 承されたことを提示するということによって、儒教式死者儀礼とその 根源としての複葬との関連性を考察することを目的とした。

韓国の伝統社会では複雑な手続きを持つ儒教死者儀礼の喪・祭礼が これという反省なく守られてきた。喪・祭礼に対する従来の研究は主

70) 朝鮮朝の教化によって死体遺棄が禁止されるにしたがって庶民が上層階 級の仮殯を変形して開発した葬法である。(古田博司, 「儒礼教化以前 朝鮮葬祭法复原攷」, 朝鮮学会, 『朝鮮学報』第152輯, 1994, p.50.).

朝鮮時代末までも、ほとんど全国的に見られたが、現在は西南海岸と西 南海のきわめて限定されたところだけで見られる。(李杜鉉, 「草墳」, 中根千枝 編, 『韓国農村の家族と祭儀』(東京 : 東京大学出版会, 1973), p.1.)

참조

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